第六十二回 個人的な今週のエッセイ R7.06/15-R7.06/22

ブログ活動

 

 

お品書き

 

今週の本

安倍公房の「砂の女」という本を読み終えた。あらすじを簡単に書くと。
昆虫採集が趣味の男が、砂漠へ虫をとりに向かうのだが、最終バスが出てしまいその村での宿泊を余儀なくされることとなった。困った男は、村の人たちへ尋ね、そしてある民家へと案内される。その民家は砂の底にあり、縄梯子を使わなければ上り下りができない場所にあった。そこで生活をしている一人の女に許可をもらい、泊めてもらうことになるのだが、翌日になると縄梯子が撤去されていた。男はその砂の底に閉じ込められてしまったのだ。男はそこで労働を強いられながらも、抜け出そうと模索しながら生活をすることになる。

この本を読んで感じたことは、私が数年前に感じていたモヤモヤとよく似ていた。それは、多数の感じる幸せが誰にでも当てはまるわけではないのではというものだ。
私は普通の幸せというものを耳が痛くなるほど見聞きした。女を作り、結婚をして、子供を作り、家族で家に住む。どうやらそれが、世間の幸せというものらしい。だが、私はそれが真の幸せであると疑わない大人たちを見て、吐き気を感じたのである。
そもそも、幸せというのは、目的地のようにあるものではなくて、日常に散らばっている些細なものではないのだろうかと、私は考えていた。だから、幸せを過大評価し、結果的に小さな幸せに気付かない人を見ていて、吐き気を感じたのかもしれない。いつか手に届く、幸せのために頑張っている。そうやって、我慢しながら生きている人を見ていると、カルトの信者のようにも思えてきた。
やがて、幸せを手にするかもしれない。だがそこで、それが大したものではないことに気が付く。だが、今までかけた苦労のことを考えて、その幸せが自分にとって大切なものであると嘘をつく。
私は私に言い寄ってきた人たちがそれだと思った。本当の幸せだと信じきった人間たちが、その世界に私を勧誘しているように思えてならなかった。多数の感じる幸せが自分自身にも当てはまるとは限らない。そうして疑わなければ、本当の楽しみを知らないまま、形だけの幸せを追い求めて死ぬのだろうと思った。私はそれが嫌だった。

男は、村に監禁されたことで不条理に嘆いていた。封鎖的な環境で生活を強いられながら自由を求めて、そこから逃げようと何度も試みた。
しかし、その底での生活で男は楽しみを見つけることとなった。それは偶然見つけたものだった。
私にはその男の楽しみが、男が生活を守るために自分についた嘘なのか、それとも真に心が躍る幸せなのかの判断がつかなかった。
女とそれなりに生活をし、食べ物も与えられ、そして楽しみもある。結果、男は逃げることよりも、その楽しみについてを考えることの方が増えていく。

人は強いこだわりを持っていたとしても、やがて折れ、多数の波に流されていくのだろうか。そんなことを考えた。それと同時に強いこだわりが崩れ去るほどの運命的なものがこの世界にあることを願った。私はそれに価値観を崩してもらいたいと思った。

 

子供のうさぎ

段ボールの中には、茶色や黒、白い毛の入り混じった小さな野うさぎが二匹入っていた。そのうさぎを手のひらに乗せると、大人しく、それがとても小さいことに気がついた。生まれて1週間ほどしか経っていないのではないかと思った。首を掴み、前歯を見てみると、小さな白い歯が二つ並んでいた。私はとりあえず、家で飼っているうさぎが食べているチモシーを段ボールに敷いた。うさぎは箱の隅でじっとしていた。

うさぎはハウスの中にいたそうだ。入り口から入ってきたうさぎがそこで産み、どこかへ行ってしまったのだろうと思った。調べてみると、うさぎの親は一日に10分、乳をやる程度でほとんど放任しているそうだ。私はその子うさぎが不憫に思った。私の家のうさぎはメスであるから会わせて見ようと思った。

家のうさぎは子うさぎの匂いを嗅ぐ程度でほとんど興味を持っているようには見えなかった。部屋に放した子うさぎは動かずにじっとしていた。携帯で調べてみると、野うさぎを捕まえて飼うことは法律で禁止されているそうだ。私は仕方なく、段ボールに戻し、元いた場所に戻そうと思った。手のひらほどの大きさしかない子うさぎが外の動物から生き残れるはずがないことは分かっていた。鳥が目を光らせてるだろう。
私は仕方がないことだと考えることにした。
自然の中で生まれたのだから、その中での役割を果たさなければならないのかもしれない。例えそれが、そのうさぎよりも大きな動物の餌になることだったとしても、それが正しいことのように思えた。

 

 

若者の犯罪

若者が犯罪を犯したりする理由は色々とあると思うのだが、20代の、私と同じ年代の人間が犯罪を犯したというニュースを見るたびに私はなぜぜか、自分が追い込まれているような感覚を覚える。その犯罪者たちが自分とは全くの無関係の人間であるのにも関わらず、同じ年齢というだけでどこかで繋がっているような気持ちになるのかもしれない。もしかしたら、自分も犯罪を犯していたかもしれない。そんな想像はただの空想ではなくて、割と現実的なことになると思う。むしろ、たまたま犯罪を犯していないと考えた方がしっくりとくるような気がする。

日本の若者は自殺が多く、心に何かを抱えているのだろうと思う。その自殺という内側へのエネルギーが他者へ向いた結果、今度は、若者の犯罪者が増えたのだと考えた。どちらがいいのか私には分からない。

人に迷惑をかけない理由としていくつか挙げられると思う。人に迷惑をかけることはしてはいけないと言われたからとか、法律で禁止されているとか、私にはそんなことはどうでもいいことで、私は、どうでもいいことに時間を使いたくないという性格がベースとなっている。だから、人の愚痴を言う人間が理解できない。暇なのかなと考えるしかないのだ。

若者の心の鬱憤が爆発して、社会にとって不都合を引き起こす。それを防ぐのはやはり自分との対話であると私は考えている。私は、紙とペンさえあれば、かなりの時間を過ごすことができるので、かなりコスパの良い性格だと感じる。自分の感じているモヤモヤを言語化し、解明することで新たな発見をし、結果悩み事がほとんど浮き彫りになる。

紙があれば、犯罪は減るのではないかと私は思った。話し相手がいない人であれば尚更だ。私は一人が大好きで、寂しさも感じることが少ない。紙とペンがあれば思考を自給自足できるので、困らない。こうやって考えるたびに得した性格だと思えてしまう。人が必要ないと思えると言うのも問題なのかもしれないが。

 

 

蕎麦屋

祖父と向かった蕎麦屋は昼時の11時にならないと開かない店だった。店の前に置かれた受付の紙に氏名を記入し、車に戻る。開店の20分も前から並んでいる人たちがいたが、私たちは車の中で涼んでいることにした。
隣に大きな車が停まった。運転席から降りてきたのは身体の大きな男で、長い髪の毛を後ろで縛っている。その車からは続々と人が降り、店先へと歩いていった。私はその男たちを眺めていた。男のうちの一人がポケットからタバコを取り出し、吸い始める。煙は黙々と上がり、風に流されていた。
私はしばらくその男たちを見ていたのだが、受付の紙に名前を書いた後も、そこでタバコを蒸していた。他の客などお構いなしに煙を吹き出し、仲間たちと笑っているように見えた。私は他人のことを考えない人間が嫌いだった。他の客は副流煙を黙って吸い、じっと席に座っていた。煙をなるべく吸い込みたくないのか、あまり喋っているようには見えなかった。

私は、祖父が蕎麦が食べたいと言ったので、その店に行ったのだが、タバコを店先で吸っている男たちを見ていると、だんだんと不快になり、蕎麦のことなど、どうでも良くなっていた。幸い、すぐに店に入ることができたので、すぐに店を去ることができた。

蕎麦の感想よりも、どうでも良い人間の気掛かりな行動が頭の中に残ってしまうことが嫌だった。

 

 


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