第九十八回 個人的な今週のエッセイ R8.02/22-R8.03/01

お品書き
50回目のファーストキス
50回目のファーストキスという映画を見た。
この映画は、主人公の男が交通事故で記憶が一日しか持たない女性に恋をする話となっている。
私は久しぶりに恋愛映画でも見ようかと思い、この映画を選んだわけだが、どこか哲学的な問いかけをされているような不思議な感覚が終始あった。というのも、彼女は自分が交通事故に遭った日を忘れていて、その日を繰り返すわけなのだが、知人たちはそれを隠そうと必死になっている。彼女は壁にペンキで絵を描き、それを父が白いペンキで毎晩塗りつぶす。同じ日の新聞をいくつも用意し、彼女は同じカフェでいつもワッフルを頼んで食べる。
彼女が交通事故について知った時は家族総出で病院へ行く、医師から説明を受け、これで何回目ですか? という質問をする。
まるで昔のビデオのように思った。再生したら、巻き戻さなければならない。彼女は夜になると自動的に巻き戻しがされ、同じ日を送る。
今日も似たような一日を過ごした。と、それが毎日続き、似たような一週間があったことを思うように憂鬱さを感じることがある。彼女はそんなことはないのだが、そんな平凡な一日の繰り返しというのを表現しているようでやはり、少し憂鬱になった。
この映画は世界5分前仮説のようにも思えた。彼女の時間というのもは彼女が生きてきたものの積み重ねであるわけで、それは記憶であったりを指している。世界は5分前に誕生したばかりで、それ以前の記憶を何かしら植え付けられている、というようなそれと似ているような気がした。
彼女の送る一日を観測する外部の人間と、彼女とで世界が違っていて、それを擦り合わせるように周りの人が嘘をつく、それが死ぬまで続いていく。彼女目線では何も変わらないが、外から見ると不憫でならない。「いつか、彼女が朝起きて鏡を見ると、老いた自分が映るんだ」と、主人公は言っていた。変化が目に見える形として、突如現れる、実際にはずっと前から少しずつ変化していたわけなのに、突然何かが変わったように思う。
同じ一日、同じ一週間、少し違っているが、ほとんど差異のない日々が続いている。気づいたら一ヶ月が終わり、一年が経っていた。
那須という場所
栃木県の那須という場所は街並みからして洒落ている。道路が小綺麗で、歩道の木々も切り揃えられている。山の中にあるカフェに行ったが、そこは一流のバリスタが淹れるコーヒーを飲むことができる場所で道中は看板がぽつりぽつりとあるばかりで、調べなければ決して辿り着けないような場所だった。那須という言葉を聞いて、洒落ている。と感じるのは、Appleはスマート、と同じキャッチコピーのようなものだと思う。全体的なイメージというか、なんというか、雰囲気を感じていたいと思ってしまう。普段は行かないアウトレットも自然とその雰囲気で包まれていて、特別な場所のように見えてしまう。
小太刀
小太刀は包丁のように片刃ではなくて、両刃になっているからそもそも用途が違う。何かを切るためのものではなくて、刺すために作られたものだろう。だから、それを見せられた時、その柄がいい感じに古くなっていたのを見た時、それは切腹用だろうなとなんとなく思った。従軍していた人間の子孫のもので大きな刀のようなものは市に渡したという、返しに紙をもらったりしたのだという。
小太刀は所々錆びていたが、綺麗に磨かれた鏡のような面もあった。曲線は美しく、刃こぼれは見られなかった。
村上春樹の本で戦時中の話が描かれていた。そこには殺人に慣れさせるために捕虜を殺す日本兵がいたという話があり、印象的だった。国際法で無抵抗の人間を殺してはならないそうだが、極限の環境にいる人間が法を守るとは考えられない。それに昔に日本人は、悪い言い方をすればイカれていたらしいから、やはり、捕虜になったり、尋問を受けた時のために自死できるようなそれを渡されていたのだろうなと思った。
刃物を誰かが作ったのだから、それで何も切らないまま放置ということは少ないだろうと思った。刀は人を斬るために作られただろうし、包丁は野菜を斬るために作られたのだろうと思う。だから、血を吸っていたり、人を殺していたとしても不思議ではなかった。だから、小太刀というものがただの刃物、というよりかは誰かの過去が染み付いているように思えてならなかった。
子供の頃にも似たようなことを考えていた。今思えば、違和感を感じる根本的な部分は子供の頃から変わっていないと思う。それは小太刀とは全く別の話になるのだが、何か共通するものがあるような気がした。
学校の帰り道に犬のフンを見たり、廊下で誰かが吐いたりして、だが、何事もなく次の一日が訪れる。そして、何事もなかったかのように犬のフンがあって、昨日誰かが吐いた吐瀉物は綺麗に消えている。私は誰かがそこで吐いた、ということを知っているから、その廊下をできれば通りたくなかった。遠回りになるがが階段を使い、迂回して自分の教室へ向かった。だが、それを知らない人、昨日休んでいたり、誰からも話を聞かされていない人は、その場所を普通に歩き、中には取っ組み合いをして吐瀉物があった場所で笑い転げている者もある。私はそれが不思議だった。真実を伝えれば、きっと驚き、服を払うというような無意味な行動をしたかもしれないが、私は黙ってそれを見ていた。帰り道、犬のフンはなく、きっと誰かが片付けたのだろうと思った。だが、そこには確かにフンがあったし、私はそれを知っていた。他の人はそれを忘れているのかどうかは分からなかったが、どうしてもその場所を歩きたくはなかった。誰も何も言わなかったが、やはり私は、少し避けてその場所を通った。
後になって、そういったものが思い出なのかもしれないと考えた。場所と記憶、物と記憶が結びついた結果が、その思い出のような物だろうと思った。私は神経質だったから、そのことを覚えているだけでもしかしたら他の人は忘れているかもしれない。似たような特性の人たちが共通のイメージをその物や場所に結びつけて、そして何かが生まれるのだろうと思った。
きなこちゃんごめんね
うさぎの餌は機械で出るからその機械に餌を補充すれば、決まった時間に自動で餌が排出される。ピピーッと音が出て、うさぎは耳を立てる。餌を排出する前にウィーンと音が鳴ると、うさぎは一目散に駆けていき、機械に齧り付くようにして餌を食べる。
昨日、餌が出る合図のピピーッという音が鳴った後になにも出てこなかった。私は機械が故障したのだと思い、機械の蓋を開けると、そもそも餌が入っていなかった。私はうさぎに謝り、袋から餌を与えた。おそらく一日断食していたということになるかもしれない。ペットは餌の時間を最も楽しみにして生きているのに、音が鳴って何も出てこない、というのが一日続いたというのを想像すると、とてもかわいそうに思った。少し面白さも感じたが、命に関わることだからやはり気をつけようと思った。
プレゼントを渡されたと思ったら箱の中身は空だったとか、それも毎日楽しみにしているご飯の時間で、いつも全速力で駆けて行くほどのもので、一日のほとんどの時間を退屈に過ごし、で、そのピピーッが欲求と完全に一致していて、でも餌が出ない。やはり、笑ってしまう。全力で生きている動物だからこそ、その感情の起伏が感じられ、大袈裟だから余計に面白く感じてしまう。
ペットの声が聞こえたら、面白そうだといつも思う。メスのうさぎは女王様のようにわがままだから、きっと面白いだろうと思った。さわるんじゃねえ、えさよこせ、と言っていたら、なお面白いなと思った。
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