第六十五回 個人的な今週のエッセイ R7.07/06-R7.07/13

お品書き
今週の本
今週、私は村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」という本を読んだ。この本は何といってもタイトルが美しい。私が本を買う時というのはある程度中身を確認するのだが、この本の場合はそのタイトルの美しさに惹かれ、ほとんど、無意識的に本棚に手を伸ばしたことを覚えている。
内容は “美しさ" とは対照的であり、ドラッグやセックスに溺れる若者の暴力的で荒廃した日常といった感じになっている。子供の楽観性が将来への不安に押し潰され、大人へと変化していくような不安定な心境がこの本では描写されている。自分の過ごしている環境とは全く似つかないものであるのに、心境だけは共感することができる。それは、若者の本質的なものを著者が掴んでいるからだと感じた。
そして、この本は何といっても直接的な描写が多い。吐き気を感じることも少なくはなかった。どうやら、読み手が実際に経験しているように感じさせる技法を用いているからで、それをスティーヴン・キングは「テレパシー」と呼んでいたらしい。妙にリアリティーを感じ、文字が映像を作っている様子が伝わってくる。
タイトルの「限りなく透明に近いブルー」は、文中でガラスに映った空として描写されている。しかし、私はこれを若者たちの心境について言っているのだと感じた。ドラッグやセックスに溺れている彼らの日常は私たちからすれば、異常であるが彼らからすればそれが普通のことになっている。その中で共通するのが心の中の空虚さであり、それはブルーな気持ちであったり、憂鬱さ、悲しみや不安とも呼ぶことができるかもしれない。
やがて、ブルーな気持ちが晴れていく。その変化をを限りなく透明に近いと言っているのだと思った。
その感情を知ってしまえば、抜け出すことができない。知ってしまえば、世界が違う色に見えるかもしれない。それでも、知らないふりをしたくはない。その感情を味わい尽くしたいから。
今週の映画
今週は何の映画を観ようかと考えていた。ウォッチリストを観てみると、「コーダ あいのうた」や「プラダを着た悪魔」などがある。映画というのはまた観たいと思えるような作品が多いから余計迷ってしまう。こうやってウォッチリストに入れたとしても、次に観たいかどうかは分からない。映画というのは気分で観たいものが変わるから面白い。つまり、今日観たい映画が明日、観たいとは限らないのである。だから結局、ほとんど直感的に観たい映画を再生することになってしまう。そして今週は「レオン」を観ることにした。ジャン・レノやナタリー・ポートマン、ゲイリー・オールドマンなどが出ている作品で、かなり有名な作品だと思う。だが、実は観ていなかったりする。
内容は何となく知っていた。5年以上前だったと思うのだが、Youtubeの映画紹介チャンネルで見てしまったからである。そのチャンネルでは「パフューム ある人殺しの物語」であったり、私が大好きな映画「ロブスター」だったりも紹介されていた。内容を知っていても観たくなるのが、なぜか「レオン」だけは観る気が起きなかった。いや、何度も観ようとはしていたのだが、観る直前になると何だか、画面を閉じてしまうのである。
実際、観てみるとナタリー・ポートマンの可愛らしさであったり、ゲイリー・オールドマンの狂気さであったり、俳優の演技力に引き込まれたりする。
知っている俳優が出ている安心感であったり、その演技の幅だったり、どの作品で際立っているのか、そんな比較をしたりもする。
ちなみにナタリー・ポートマンは「レオン」のマチルダが一番好きで、ゲイリー・オールドマンは「ダークナイト」のゴードンが好きである。
レオンの話に戻るが、最も印象深かったシーンは初任務のお祝いで二人がレストランで食事をするシーンである。年齢を隠していたマチルダがお酒を飲み、笑いが止まらなくなるというシーンだ。レオンが戸惑いながら彼女を見つめるのだが、周りの目線などお構いなしに笑い続けている。この時のマチルダが映画に漂う暗い雰囲気を洗い流すと同時に、より一層、その暗さを掘り下げているような気がした。
レオンに実際の年齢よりも高いと嘘をつき背伸びをしていたマチルダだったが、レストランのシーンで一気に子供に戻る。普通に観ていたら、可愛らしいシーンなのだが、それと同時に家族が殺されて行く当てもない子供であることを知らしめさせられる。強がってはいるものの、弟を殺された悲しみを抱え、一人で生きていかなければならないという現実があるのだ。それが浮き彫りになる素晴らしいシーンであったと私は思った。マチルダ演じるナタリー・ポートマン自身も12歳で出演しており、マチルダの年齢に背伸びをしていた。女の子の成長は早いと聞くが、彼女はまだ子供なのである。そして、ナタリーの幼さを隠すような大人の演技も、レストランのシーンで一気に崩れる。そう、彼女も子供なのだと、そんなマチルダとナタリーの二人に対して起こる変化がより一層深まる演出であったと思った。
名作は観ておくべきだと思う。本も映画も、名作なりの理由がある。次は何を観ようかな、
今年初スイカ
去年作ったスイカもこの時期にできた。だが、食べることができなかった。猪が侵入をしたからだ。20個ほどのスイカがそこで食べられ、ダメになってしまったという。それを踏まえて今年は早めに柵を取り付けることにした。まだ少し早かったが、収穫のサインがでていたこともあり包丁を入れてみる。タネが少し白いとまだ早いということらしいのだが、十分に甘いスイカだった。
枠組み
家で遊んでいたものが、学校へと帰属し、やがて社会へと広がっていく。初めは母の子宮に閉じこもっていたはずなのに行動の範囲、人の関わりの範囲がどんどんと広がっていく、人によっては海外に目を向ける人もいるかもしれない。私はそこまでする気力はないが、それもまた面白いかもしれない。
私は少し怖い。
変化を望む性格であったはずなのに、大切なものがすり減っていくような気持ちになる。そして、その大切なものというのも自分自身では分かっていないという少し矛盾した気持ちになる。いつまでも臍の緒につながっているのだ。突き放しても突き放しても、家族であることに変わりはないのだが。
やさいきもの
今週掘り出したじゃがいもは腐ったものが多かった。固いはずのじゃがいもは指で簡単につぶれ、中からは白い泡のようなものが溢れ出す。形を保てずに崩れ、酷い臭いを発しながら、どろどろとしている。腐った野菜の臭いを嗅ぐと、道端で死んだ動物から漂ってくるような腐敗臭を思い出す。腐ったという共通の状態でそこに付着した菌か何かがタンパク質を分解する途中で臭いを出しているのだろうか、その臭いは慣れることができない。暑さが原因でそうなってしまったのかと思ったが、もしかしたら連作障害が起きたのかもしれないと思った。同じ場所で野菜を作り続けると、必要な栄養がなくなり、その野菜が出す毒素が残る。そして土壌の栄養バランスが崩れることで特定の野菜が作りづらくなってしまうというものだ。だから、じゃがいもはナス科であるから、ネギやキャベツを育てることで土壌の栄養バランスが整える必要があるという。
連作障害というのは最初、人間でいう近親相姦のようなものだと思っていた。ハプスブルク家が陥ったように同じような遺伝子が組み合わさって、問題が起きるのだと思っていた。しかし、少し違う気がした。どちらかといえば、相性の悪いもの同士でグループを組んだようなものなのかもしれない。誰かの愚痴で酒が進むと思っていたら、その話題の対象の親友が同じグループにいたということに近いのかもしれない。
自然界単位で相性があるのだから、人間同士でみんなが仲良くできるはずがないと思えてくる。トマトはナスと仲が悪いが、キャベツやネギとは仲が良い。ちなみにナスもトマトが嫌いである。
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