週末の唄 第八回 個人的な今週のエッセイ R6.6/2-6/9

ブログ活動

こんにちはゆうらいふです。
今週もエッセイを書いていきます。
今週からは、目次を15項目程度でまとめて書いていこうと思います。
気になる箇所だけでも読んでいってください。

それでは、初めて行きます。

 

お品書き

スリッパの底

スリッパのつま先が盛大に破れてしまったので、スリッパを買いに行くことにした。

スリッパに求める条件は、特に何もなかったのだが、灰色で先端が固そうなスリッパを買った。
理由は簡単で、先端が固ければ、簡単に破れることはないと考えたからだ。
そもそも、なぜ破れてしまったのかもよく分かっていないので、次、破れた時に考えようと思った。

スリッパを買った後に気が付いたことなのだが、そのスリッパは、夏用のスリッパではなかった。
内側がもこもことしていて、すぐに汗をかいてしまう。
汗が、スリッパの生地を湿らせ、とてつもない不快感を味わった。
足の裏は、温度を調節するのにかなりの熱を放出するので、通気性が悪スリッパというのは、夏用ではない。

だが、たまに裸足の足が、フローリングに触れるとひんやりとして気持ちがいいということに気付くことができた。

 

そして、昨日、スリッパの底を見てみた。
一週間でこんなに汚れるのかというくらい底が汚れており、黒い胡麻のようなものや、シミのようなものが踏まれて、それらが綺麗に底についていた。
家中の様々な汚れが、私のスリッパの底で、国を作っているようだった。
それをみて少し感動してしまった。

いろんな場所から、適当に連れてきた人たちで、平等な国家が出来上がった。
芸術というのは、そういったものなのだろうか。
全く関係のないもの同士が、踏まれたという一つのきっかけで関係性を描いていた。

踏まれるきっかけがなければ、元いた場所に止まっているだけだった。

踏まれたことで、強制的に共通点が作られ、スリッパの底に模様を作っていたのである。
汚いとは、感じなかった。

じっくりとその模様を観察し、底を床につけると、もう一度家の中を歩くことにした。
次見る時は、どんな絵ができあがっているのかを楽しみにしながら。

 

ダークナイト

久しぶりに『ダークナイト』を観た。恐らく、6回目だろうか。
クリストファー・ノーラン監督の映画で、私が一番好きな映画であり、何回も見てしまう作品だ。

『ダークナイト』は、ヒース・レジャー演じるジョーカーの最高傑作であり、俳優人生最後の映画でもあった。
彼は、ジョーカーになるためにホテルに篭り、役作りを行なった。
サイコパスを研究し、犯罪者の資料を読んだ。
そして、狂った、ジョーカーを完璧に演じるも、彼は役に呑まれてしまった

ダークナイトの序盤のシーンは、呼吸をするのも忘れてしまう。
銀行強盗を行うグループが、たびたび口に出すジョーカーという名前。
ジョーカーは、仲間たちに役目が終わったら殺すように指示しており、簡単に裏切ってしまう強盗グループ。
人数が減れば、金が多く手に入るからだ。
だが、最終的に残ったのは、ピエロただ一人だけだった。

銀行員の前で、ピエロのお面を外すとメイクをしたジョーカーがいた。
指示をしていただけだと思われたいたジョーカーは、自らも犯行を行なっていた。

最高の自己紹介だ。

銀行員に爆弾を咥えさせ、そのままバスを出すと、ジョーカーの乗ったバスと同じ、通学用のバスが通っている。
そして、入れ違いで警察が入ってくる。

完璧な計画で、金を盗み一人勝ちをするジョーカー
このシーンは何度見ても飽きない。

そして、もう一つ外せないのが、病院のシーンだ。

病院を爆破していくジョーカーは、ナースの服装をしている。
病院を出て、大きな爆発を期待するも、予想していたものが来ない。
あれっ、と言った感じで、何度もボタンを押すと、やっと起爆する。

このシーンもダークナイトを観たことがある人なら記憶に残るシーンだろう。

ホアキン・フェニックスやヒース・レジャー、ジャック・ニコルソンなど歴代のジョーカーで誰が記憶に残っているだろうか?

私は断然、ダーク・ナイトが記憶に残っている。
悪役の中でも最高に好きだ。

 

エクスプロージョン!!!

『この素晴らしい世界に祝福を』というアニメの3期が放送されており、久しぶりに『このすば』を見てみようと思った。
そして、その中に出てくる魔法使いのめぐみんという女の子が、主人公たちと出会うまでの話が、あることを知った。
『この素晴らしい世界に爆裂を』というアニメだ。

めぐみんを簡単に紹介すると、一撃必殺の最強の魔法(爆裂魔法)エクスプロージョンが打てる女の子で、主人公と同じパーティに属する魔法使いだ。

だが、爆裂魔法は欠点があり、魔力の消費が激しく、1日一発しか打てないネタ魔法として知られたいた。

魔法使いとしての素質がある一族に生まれた、めぐみんだったが、なぜそのようなネタ魔法に憧れるようになったのかというのが、『この素晴らしい世界に爆裂を』という話で語られる。

あるシーンで、めぐみんの友達のゆんゆん(このすばの世界では、めぐみん達紅魔族は、変わった名前が付いているという特徴がある、戦闘において大切なのは、かっこいいことであるとも教えられている)が、めぐみんに、なぜネタ魔法にこだわるのかを聞いた。
なんの役にも立たない魔法になぜそこまでこだわるのかが、ゆんゆんには分からなかった。

アニメの第一話でめぐみんは、爆裂魔法を目の前で見る。
そして、それが人生を賭けるに値するものだと直感する。
全身を電気信号が流れたような興奮を感じ、めぐみんは、誰よりも爆裂魔法に憧れることになった。
みんながネタだと言っていても、誰よりも爆裂魔法のことを調べ、憧れた。
一度見た詠唱を毎日唱えて、その魔法が使えるようになる日を待ち望んでいた。(このすばでは、スキルポイントを使い魔法を覚える)

現実的なゆんゆんと対照的にロマンを追い求めるめぐみんがこのアニメで見ることができる。

夢を見つけた少女が、夢を叶えるまでに努力をし、生涯をかけるというのが、このアニメでは出てきた。
夢はロマンなのかもしれない。
非効率で、自分のことしか考えていない、でもたった一つの衝撃が自分を突き動かす。

このアニメは疲れた時に観て欲しい、夢を追いかけている人は勇気をもらえると思う。

 

背骨と肋

魚の骨をよく考える。
私の行なっている行動は、背骨に繋がっているのかということだ。
私にとって、将来の夢は背骨であり、それに繋がる小さな行動が肋なのだと思う。

たまに横道にそれたい時があるだろう。
だが、中途半端に肋のような行動をとってしまう。
休みたいのに有益な行動をしたいと思ってしまうのだ。
メリハリをつけるべきなのだが、なかなか難しい。

背骨的な行動をしている時に全く関係のない行動をするのは論外であると思う。やることは、やるべきなのだ。
だが、リラックス時間が、肋に侵食されるとストレスが溜まる。

休みたい時に休まなければ、やる時にやれないのだ。

この問題を解決するには、時間しかないのではないかと思った。
集中力を最大発揮する時間というのは、大体朝の起きてから4時間だと言われている。
この時間でいかに自分の集中力を最大発揮するのかというのが勝負だ。

そして、休む
寝る前というのは、完全に休んで、有益なことはしないと決めた方がいい。
寝る前というのは、時間への焦りで、何かしなければと思ってしまう。
ではなくて、休むことも大切だということを踏まえて、メリハリを持った生活を送ろう。

休んでいる時にメモをとってしまうと、背骨や肋になってしまう。

そして、気分がどうしても乗らない時というのは、無理に解決する必要もない。
骨と離れたところで気を回復させよう。

美味しいものが好きなら食べればいい、いつもよりも早く寝ればいい、好きな映画でも本でもなんでもいいから、自分の気を回復させよう。

 

好きなアーティスト

私は、音楽をたまに聴くのだが歌詞について考えてみたいと思っている。

小説家と同じように作詞家もそれぞれがテーマを持っていると思う。

言葉を使って何かを作るというのがとても魅力的に見えるので好きなアーティストの歌詞や言葉について考えたりしてみたい。

好きな音楽というのも、ただ好きというだけではなくて、音楽の中に何かが隠れていると思う。
それを見つけることができれば、自己分析にもなるだろう。

 

腰の痛みと信仰心

腰が痛くて、整体に行った。
整体から戻ってくると、腰の痛みが消えて、笑顔が溢れる。
しかし、次の日になると腰がまた、痛くなる。
今の祖父がこの状態だ。

私は、病院に行っても次の日に元に戻っているのなら意味がないのではないかと思っていて、祖父も同じような考えを持っていた。
どうしても耐えられない痛みがあった時に整体に行くというような感じた。
そして、祖母はそれを聞いた上で、整体に行けといっていた。

行っても意味がないと本人が言っているのに行くことを勧める意味が分からなかった。
他人の痛みに共感することはできないのなら、相手の要望を聞くしかない。

整体が宗教のように感じた。
半日分の痛みを取るかわりにお金をいただく。
整体に訪れたことが腰痛改善に繋がっているのかが疑問だった。
もしかしたら、意識の問題かもしれないし、整体でコミュニケーションをとったからかもしれない。
それとも口うるさい祖母に何も言われないからかもしれない。

整体に行っても次の日には、元に戻るのだからほとんど変わっていないのだ。

だが、祖父の行動を制限することは私にはできない。
強い思い込みで腰痛が軽減されると私が思っていても、他人の痛みに対して、共感することはできないのだから。

 

遺伝子への反発

小さい時の問題行動の意味が分かり感動したことはないだろうか?

私は、自分では意味の分からないことをたくさんしていたが、それが言語化できるようになった時があった。
その時に私は、生物として取るべき行動ではなくて、私が一貫してきた意志を尊重したいと考えていた。

今の私であれば、効率や合理性を基準にして行動するかもしれないが、そうではなくて何か信念を持っている方が人間らしいということに気がついた。

その信念を曲げるのは、その行動が信念を曲げるに値するかというときだけだ。

信念を曲げるほどの物事が起こらない限りは、私は遺伝子に操縦されないような行動を取ろうと思う。

私は、本当に好きな人ができなければ結婚はしたくないし、親の要望を叶えるために遺伝子を残したくもない。
私は、捻くれているので、こういった意味のない約束を意地になって守ろうとするかもしれない。

 

宗教施設のカフェ(1)

宗教施設にカフェがあるとしたら、そこを利用したいと思うだろうか?

宗教に興味があったわけでも、自分が引っかからないことを試しにいった訳でもない。ただ単にカフェに興味があった。

関東初の『宮カフェ』らしく、カフェを利用するついでに宗教も体験してこようかなと思ったのだ。

施設は比較的新しく、看板があることと、立派な施設が建っていることは元々、知っていた。
興味はあったが、やはり宗教施設の話を聞くと嫌なイメージしかない。
よく分からない壷を買わされ、しつこく勧誘されるのかというものだ。
それは、私が無知であるから持っている印象であり、ほとんどの人が持っている印象をそのまま、受け取ったものだと思う。

看板には、こう書いてあった。
「子が問えば、親が答える」
そして、その施設に行こう決めたきっかけは、施設の案内看板の下にカフェという文字が追加されていたからだ。

私は、のんびりと静かなところで本を読むのが好きなので、行こうと決めた。
そして、そのカフェが無料でコーヒーを飲むことができるというのも魅力的な点でもあった。

宗教施設についてのことを看板で知ったわけだが、ホームページにも記載されていた、その施設では様々なイベントを行なっているらしい。

春と秋に祭りを行うようだった。

気になる人は、『皇和大親宮』と調べてみてほしい。

解放日が、第二・四日曜日しかやっていないというので、今日、遊びに行ってきた。
その感想を書いていこうと思う。

 

宗教施設のカフェ(2)

施設の外に駐車場はなく、そのまま門を通過した。
施設には、アスファルトが敷いてあり、カフェらしきものは見つけたが、看板には、受付を行うように書いてあった。

建物の前にある階段を登ろうとすると、50歳前くらいの女性が案内をしてくれた。
私が、ここに来るのは初めてだというと、親切に本堂まで案内してくれた。

受付には、名前と住所を記入する紙があり、適当な住所と名前を書くことにした。

建物の2階には、3mの丸い鏡があり、何かを祀っているような綺麗な空間だった。女性は、説明をしてくれた。
大神宮でなくて、大親宮にしている理由は、祀る教祖がいるのではなくて、自然を崇拝しているからだという。

誰でも帰ってきていい居場所であり、そこはまほろばだといっていた。

祀られているものは、3つあり。
体を作っているものと、魂を作っているもの、後もう一つは、忘れた。
親だったような気がする。

火と、水と、風がありそれらがなければ私たちは生きていけないと女性は言っていた。
火は、私たちの温もりで、水は、体内の水分、風は呼吸だという。

説明を聞いた後に参拝をした。
親指を立てて(親を立てる)4回手を叩くのだそうだ。

畳の上に、正座をして、手を4回鳴らすとそのまま頭を下げた。
3秒ぐらいで、頭を上げようとしたが、女性は頭を下げたままぶつぶつと何かを言っていた。30秒ぐらいは頭を下げていたのだろうか。

私には、信仰心というものがなかった。
だが、仕組みを知りたかった。
どうやったら信者を作れるのか、何がそこまで人を惹きつけるのか、私は、女性の話を聞き、どこに穴があるのかを探していた。

 

宗教施設のカフェ(3)

火と水と風の話は、偉い人にでも言われたものが頭に残っていたのだろう。

火が温もり、水は体内の水分、風が呼吸というのが、なんだか頭に引っかかった。
私であれば、火を太陽、水を雨、風は生命の流れとして、自然というものを作る。彼女は、自然を崇拝する施設で、人間に必要なものをあげていたが、自然崇拝なのであれば、雨と太陽で育ち、風が種子を飛ばして、と言ったふうにするべきではないかと思う。

魂の説明もされた。
体を与えられて、魂がそれを必要としなくなれば、違う体を求めていくなどと言っていた。

自然を崇拝しているのであれば、人間は自然にとって邪魔なものであり、排気ガスを出しながら草刈りをしている信者達も意味が分からなかった。

私の中では、人間は川の流れの中の水であり、流れこそが自然のサイクルだと思う。
水として、意識を持つことが異常であり、流れとして、川をイメージするべきではないのかと思っている。

女性の話を聞いていた時に私は、胡散臭いと思いながら聞いていた訳ではない。
私の考えは、死んだ後のことなんて分からないのだから、自分で好きなように解釈をすればいいと言ったものだからだ。

信じている人たちは、ただ面白い話を聞いただけなのだと思う。
その面白い話というのは、適当な本から引っ張ってきたものを適当に組み合わせて作り上げた、ぽい話なのではないかと思う。

私はあくまで女性の話を参考にして、私の中の考えを深めていくことにした。
面白い話をそのまま飲み込むのではなくて、自分の好きなように解釈をすればいいという私の考えを語ろうとも思ったが、彼女がそれで幸せを感じているのであれば、それでいいと思っていた。

本堂で参拝をした後にカフェに案内されるのだが、無料というのは本当だった。
女性の口は終始、動いており、いろいろな話をされた。

ぶっ飛んでいたことを控えめに話していたが、私はその道に関しては受け入れるという第一段階をきっちりと踏まえるので、興味半分に話を聞いていた。

カフェに着くと、5人くらいしか入れない小さなところだった。
そこで、私はてっきり一人になれると思ったので、持ってきた本を読もうと考えていたのだが、その人がコーヒーを私に出してくれてそのまま話は続いた。

私が考えていた宗教施設は、信者の金で建物を建ててと言ったものだが、その施設では、自分たちで芝をはり、建物を建てたのだという。
大工さんやら、電気工事系の信者たちが頑張ったと言っていた。

芝を刈るおじさんもボランティアでやっていたのだろう。
庭はかなり大きく、綺麗だった。
ドッグランも広く、人見知りをする犬などを連れてくる人がいるそうだ。

初めは、宗教施設の話をしていたが、そのうちに個人的な話をすることにしてみた。
車で、3時間かけて通ったと聞き、他の信者たちも他県が多いということを聞いた。

入信している人の印象は、笑顔で人に優しいというものだったので、暴力を振るうような危険な人間よりはいいと思っていた。
偽物の笑顔の奥に何があるのか、ただそれが気になっていた。

 

宗教施設のカフェ(4)

何かきっかけがあって、心が休まったというのは、バイアスだと思っている。
つまり、宗教施設に来たから気分が休まったと勘違いしているだけで、実際は、自然を見たり、入信している仲間たちと会話をしているから問題が解決したのだろう。

それは、科学が証明していることであり本を読めば分かることだ。
それを知らない人たちが、不思議な力があるとして、崇めているのだろう。

女性の話を聞いていた時に私が感じたのは、一人が平気な私と違い、誰かといて、自分の居場所を作ってくれる仕組みのようなものを求めている人たちもいるということだ。

女性は、教えをいただいたのだろう。
愚痴や怒りというのが原因で何かあったようなことを語っていた。

女性は怒りや愚痴を悪いことのように言っていたが私はそうは思っていない。
愚痴や感情に任せて怒るというのは、時間の無駄だとしか思っておらず、人生においてマイナスに働くとは思っていない。

感情を受け入れることで寛容になれると思う。
宗教施設の人間に持っていたイメージは、案外当たっていた。
害を与える人間がいないということで、私は高い評価をした。
だが、教えをそのまま受け取っているというのが、気に食わなかった。

女性は、怒りによって、何か大切なものを失ってしまったのかもしれない。
そのことを悔いて、これからの人生をより良くしようと思ったのかもしれない。
だが、良い人生も悪い人生も決めるのは、自分自身なのだと思う。

入信している人というのは、作り笑顔をしていると勝手に思っており、私はそれを確かめたくて、プライベートな質問をしてみた。
質問をさることで嘘がバレないようにしているというものある。
私は、かなり嘘をついて話していたので、

だが、女性は途中で素敵な笑顔を見せてくれた。
作ったものではなく、本物の笑顔だ。
宗教は、相手に良い印象を与える口角の上げ方を教えてくれる場所なのかもしれないが、本物の笑顔というのは、教えとかではなくて、自分が楽しかった時の思い出から生まれるのだと思った。

(4)まで書いて、カフェの話をほとんどしなかったというのは、元々宗教施設に興味があったからかもしれない。

気になったら、遊びに行ってみてもいいかもしれない。
ただでコーヒーかお茶が飲めて、自然を満喫できると考えれば。

 

作家に必要な才能

宗教の続きなるが、奇跡を信じるという人は、どのくらいいるだろうか?
私は、やはり脳の思い込みであるとしか考えられない。
脳内物質の強力さというのを聞いたことがあり、そもそも人間には限界があると思っているからだ。
では、嘘くさい話は、どうやって出来上がるのか?

映画や小説を作る才能というのは、自分の記憶を書き換えられる力であると思う。
つまり、作家というのは天性の嘘つきで、作り話をでっち上げるのは朝飯前ということだ。

そのことを考えた時に私は、昔の人たちのことを考えてみた。
奇跡を綴った話や、聖典などは、全て一流の作家によって作られた創作物だと思う。

歴史が全てではない。
その時代に生きていた人にとって、都合が悪ければ真実は簡単に捻じ曲げられるからだ。

一流の作家たちが、作ってきたのが、歴史だとすれば、壮大な二次創作の話が人類史ということになる。

嘘つきがどうやって生まれたのかの仮説があるのだが、100人程度の村というのは、悪い噂が立つと、真偽を確かめることができた。
私たちが人間関係を維持できる人数が、大体150〜200というのもこのことから来ている。

そして、その村は、時間が経つにつれて大きくなっていった。

1000人規模だとしよう。
そうすると、その群れの中で嘘をついた時にそれを確かめる術がなくなってしまう。
嘘が上手ければ、上手いほど、嘘をついた人間は、有利になっていく。

邪魔な人間を排除し、自分が有利になることで、自分の遺伝子を残すのに有利に働く。
他人に親切を働くというのは、嘘をつかれた時の防衛なのかもしれない。

そうして、嘘をつくことで生き残る確率が上がったことで、嘘つきの遺伝子が、人類に広まり始めたのだろう。
嘘をつくことで不利になれば、淘汰されるはずだからだ。

初めに戻るが、天性の嘘つきが歴史を紡いできたと思っている。
誰が書いたかというのは、どうでもいい。
その人の遺伝子として芸術として、広く伝わることになったのだから。

 

Fall outから学ぶ

『Fall out』という作品をプライムビデオで観た。
核戦争後の世界を描いた作品だ。

その中で、一つの言葉がとても記憶に残っていたので紹介したいと思う。
『最悪の世界にいるのであれば、最悪の選択をしてもしょうがない』というものだ。
良い世界で育った主人公のルーシーが、荒廃した世界しか知らないマキシマスに言う言葉だ。
ルーシーは、酷い目に遭いながらも常にポジティブな女性だった。
頭を切ることを強いられたり、殺されそうになったり、指を切断されたりもした。
だが、常に人を信じ、話し合えば分かり合えると信じていた。

マキシマスは、女性とは違い、蛇口から水が出ることそ知らず、ポップコーンや音楽も知らない、上司を見殺しにし、嘘をついていたマキシマスが彼女に真実を伝えた後に先ほどの言葉を言われるのだ。

私たちの世界にもこの言葉は当てはまるのではないかと思った。
裕福な家に生まれるのと、貧しい家に生まれるのでは、環境が異なる。
運で決まる環境なのだから仕方のないことだ。

その上で、相手の行った、選択を否定せずに受け入れると言うのが、お手本のように思える。
相手に関する全ての情報を知った上で、それが間違っているということをいうのは、無理だ。
相手の行動を知ることはできても、内面を知ることはできないのだから。

ヨーロッパの考え方に似ている。
たまたま運が良くて、成功ができたのだから、社会に恩を返して当然だと言うことだ。
努力というのは、聞こえがいいが全員が与えられている特権ではない。
努力ができる人とできない人というのは決まっているのだ。

私たちのいるこの世界は最悪だろうか、それとも最高だろうか。
私たちがした選択で私たちが後悔をする必要も責任を感じる必要はない。
その選択は、世界が選ばせたものであり、私たちはそうするしかなかったのだから。

都合のいい答えかもしれないが、自分を責めて自死するよりかは、世界のせいにした方がいいという話だ。

『Fall out』は全8話でプライムで観ることができる。
主人公はかなりポジティブで理想とする人間なのだと思う。
気になった人は、調べて欲しい

 

記憶に残るもの

ふと、気がついた。
記憶に残るものは、ストーリーかシーンか。

私は、今までストーリーを組み立てるものが人生だと思っていた。
映画を人生と例えた時に波があった方が面白いというように人生の困難や喜びというのは、大きければ大きいほど面白いものだと考えた方が、ポジティブであると考えたからだ。

だが、もう一つの考えを思いついた。
昔見た映画というのは、ストーリーではなくて、シーンの方が記憶に残るというものだ。

私たちは、映画を完成させるために困難を体験しているのかもしれないが、シーンを集めるために生きているというのも面白いのではないかと思う。

面白いシーンを体験するために勇気を振り絞ったり。

私たちが、死ぬ前に思い浮かべるのは、人生の最高のシーンというものなのだと思う。
だから、経験をしよう。
人生を振り返った時に後悔が残らないように経験をしよう。

そうすれば、面白いシーンを撮ることができる。

最近の映画では、CGの技術が上がり、現実との区別がつかなくなっている。
別に記憶を誇張してもいいのではないかと思う。

記憶というのは常に曖昧だ。
本物と偽物の区別がつかない時がある。

記憶をうまく作り変えたいのであれば、物語を読もう。
名の知られた芸術家ほど、うまく模倣している。


ゆうらいふをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。