第六十七回 個人的な今週のエッセイ R7.07/20-R7.07/27

ブログ活動

 

お品書き

 

私は辞めません

何か議論をする上で「自分の希望を叶えるために必要なものは何か?」そんなことをたまに考えることがある。思い浮かぶのが、『弁が立つ人間になる』というものであったり、『心を動かす言葉選びで接する』というものであった。『論理か感情』その2つのうち、どちらかが通じれば、相手のことを動かすことができると思っている。本で言えば、実用書で論理的に伝えるのか、それとも小説のように物語の中に織り込むのか、といった感じだ。
では、言葉を上手く使っている職業は何かと考えてみた。思いついたのは弁護士であったり、政治家であったり、もしくは小説家であったりだと思う。だが、人間関係というのはどこに行っても付き纏うものであるから、職業というのは関係のないことで、個人のセンスのようなものが重宝されるのではと思う。
私が社会に出た時、初めて関わる人たちとどんな関係を築くのかというのは、自分の仕事を覚えることよりも重要なことであると思っていた。そのために試行錯誤を繰り返していたことを思い出す。愛されている人間と嫌われている人間それらを比べた時にその両者には大きな壁があることはすぐに目に見えた。人間関係を下手に回せば、自分の邪魔をする人間も出てくるだろう。それに足の引っ張り合いほど醜いものはない。同じ組織にいるのにも関わらず、その組織の利益を考えずに無駄なことをしている。それは私にとって耐えられないことのひとつだ。
人と関わるうちに相手を動かすことの難しさを知った。そして、自分の希望を叶えている人を観察した時、まるで子供のように駄々を捏ねている人間が自分の希望を叶えやすいのではと思った。私はその時、軽く絶望した。技術を身につけ、自分の希望を叶えるために努力したところで、駄々を捏ねる子供には勝てないことを知ったからだ。

どんな人間が己の願望を叶えやすいのか。それは、簡単なことで。相手の言うことを聞かない耳と、どんなことを言われても折れない心、つまりメンタが必要ということになるのだ。先日、我が国の総理がそれに当てはまるのではないかと思った。自党内の人間に辞めろと言われており、国民からの支持率も低いのにも関わらず、「私に辞める気はない」と突っぱねている。国会での答弁も同じで、話が通じない人間、が最強格の強さを誇っているようにも見えた。中には赤ん坊のように寝ている政治家さえいる。結果、欲しい答えを引き出すことができなかった大人は、諦めたように席に戻っていく。

メンタルの強い人間を見ていると清々しささえ感じることがある。一直線に何かに向かっていく単純さと、それを曲げない頑固さ。私は側から見ている分には嫌いではない。どんなことがあろうと、己の意思を曲げないというかっこよさのようなものさえ感じることもある。だが、それは合理的ではない。かっこいいかもしれないが、バカなのである。バカかっこいいとでもいうのかもしれないが。

 

 

砂の女

安倍公房の砂の女を読んでいた時に集落で砂の取引がされているという話があった。砂など何に使うのかなどと疑問に思っていたのだが、池上彰先生の番組で面白いことが言われていた。どうやら、この世界では砂不足に悩まされているというのだ。砂なんて、砂漠に山ほどあるではないかと思うかもしれないが、どうやら砂漠の砂は細か過ぎてコンクリートなどに使うことが難しいらしい。ドバイのブルジュ・ハリファもオーストラリアから輸入した砂を使って建造されたおり、そして私たちが使っているスマホの液晶にも砂が必要になってくる。

安倍公房はそのことを予言して「砂の女」を書いたのだろうか。100年も前の人間が、現代の社会問題と似た作品を描いていたことに鳥肌が立った。もしかしたら、偶然かもしれないのだが。

 

 

白い花

乾いたアスファルトの割れ目から白い花が頭を出していた。電柱を中心に放射状に割れた地面、あの大きな地震の時にでもできたのだろうか。そんなことを思いながらも、人工物が自然に食べられていくような恐怖を身に感じた。白い花の反対側の道路には崖があり、長い木の蔦が電線に伸び、地面に降りている。道路の歩道の部分には蔦が伸び、それが何十メートルも続いている。視界は空の青が半分を占め、その半分が緑、そして、その半分が人工物といった感じだ。
田舎道だからかもしれないが、日に日に増える緑に恐怖を感じずにはいられなかった。緑が増え、人間の範囲が狭まっている。向こうは一面が緑で木に覆い被さるように蔦が伸びていた。境界線が分からず、緑色のベールを被っているようにも見える。

私は緑が増えていくことが怖かった。せめて少しだけでも抵抗しようと、草を刈るが、すぐにまた、私たちの領域を侵食していく。日に日に境界線が曖昧になり、いつしか、手につけられなくなる。

白い花は、花弁が千切れ、肩を落としている中年男性のように見えた。アスファルトの隙間からなんとか養分を得ようとしている。緑に遮られた、日の光、その隙間から漏れる線に小さな手を伸ばしていた。

 

 

謝罪

私は小学生の頃、身体が小さかったことから同級生によく揶揄われていた。私の私物を取られ、私がそれを取り返そうとすると、何人かでパスをし始める。私は取り返せないことが分かると、揶揄っていた集団の中の一人の私物を手に取り、それを囮として、自分の私物を返してもらえるように交渉をした。もちろん、話が通じない人もいる。そんな時はゴミ箱に相手の私物を入れるなどした。私が感じた嫌な思いを別の形で伝えようとしていた。
始まった喧嘩がなかなか終わらないと、決まって担任の教師が登場する。私は基本的にやられる側であったため、相手が謝り、それを許すかどうかの選択を迫られる。しかし、私は頑固であった。教師に言われてイヤイヤ謝る人間を見て、私は全力でそれを断った。
「やだ」
「謝ったのだから許してあげよう」という教師は、私の気持ちなど考えていなかったのかもしれない。次の授業が始まるまでにはこの問題を解決しなければ、こんなことに時間を使いたくないと思っていたのかもしれない。であれば、余計な口出しをするな、そんな気持ちだった。私は相手から真の謝罪を引き出さなければ気が済まなかった。しかし、自分でも真の謝罪というものが分からずにいたのだから、最終的には曖昧になり解散ということになるのだ。

私は気が済まなかった。なぜ、謝れば許されると思っているのだろうか。私は相手が私と同じ気持ちを味わことで対等になれると思っていたため、言葉などそもそも、信じてはいなかった。先生は私と同じように物を取られ、それを壊された時に相手を許すことができるのか。物質と言葉を比べることができるのか。やはり、私はやり返すべきだと考えた。相手から薄っぺらい謝罪の言葉を聞き、解散すると、相手の筆箱を開け、鉛筆を順々に折っていった。折った鉛筆をゴミ箱に捨て、これで対等だと思った。相手は泣き、また同じ教師に呼ばれる。教師はなぜそんなことをしたのかと私を叱り、今度は私が相手に謝る番となった。「ごめんね。これであいこだね」と言い。私はすっきりする。

 

 

その時だけ存在する人

O滝という人間がいた。すれ違う時は必ず挨拶をするし、お互いが柔らかい雰囲気で言葉を交わす。特に共通の趣味はないし、話す話題も直近に起きた出来事を冗談まじりに口にするくらいで、特に口にしない時もある。一緒に飲みに行ったことも、遊びに行ったこともない。だが、なぜか私は彼を気に入っていた。恐らく、彼との関わり過ぎない関係性が気に入っていたのかもしれない。それほど素っ気なくもなく、話しかければ応じてくれるし、向こうも話題があれば話しかけてくる。なんというか、距離感が絶妙なのだ。私好みの距離感が、ピッタリと当てはまったようなそんな人間だったのだと思う。

面白いことに彼との会話が終わり、視界から彼が消えた瞬間、彼の存在がこの世界から消えたような感覚になる。目に見えていないものは存在していない。ではないが、それと似た感覚だった。彼が視界から消えると彼の存在を忘れるのである。普段の日常でも全く気にすることはなく、本当に存在しているのか定かではないほどだった。そして、視界に彼が現れると、彼は世界に構成され、私は彼を認識する。その間だけ彼は存在しているのだ。脳の容量を食わないというか、コスパがいいというか、私は彼が気に入っていた。今も連絡をとっていないのだが、視界に入れば、やはり彼は世界に構成されるのだと思う。他人以上であることは間違いないのだが、何以下、何未満なのだろうか。

 

 


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