第八十一回 個人的な今週のエッセイ R7.10/26-R7.11/02

お品書き
今週の映画
映画や小説をまとめているアプリがあるのだが、そのアプリで過去に観た映画を眺めていると「最強のふたり」が目に入った。私はその映画を久しぶりに観ることにした。
この映画は、事故によって首から下が動かなくなった大富豪がスラム街出身の黒人を雇うというもので実話を元にした映画となっている。
実話を元にした映画や友情・ヒューマンドラマの映画はいい作品が多いように思う。私は特定のジャンルの映画ではなく様々なジャンルの映画を観るのだが、その中でもこのような映画は感動的なものが多いように思う。そして日本では馴染みのない社会問題が作品の中でより理解しやすく描かれているため学びにも繋がることも多い。
特定の誰かを大切に思う感情、友情であったり愛情であったりというのは理解できるのだが、私自身、あまり実感した覚えがない。そういうものを真似しようと考えたときもあったが、ではなくて純粋に湧き上がってくるものだと思うから、私は待つという選択をした。だがいつまでも湧き上がってはこない。
だが、映画を観ていると自分の中にあるかもしれないその他人を思う気持ちのようなものが動くような気がする。
他人、自分とは関係のない世界だから安心感を抱くことができて、純粋に楽しむことができているのかもしれないが、他人が他人を思う気持ちというのはすぐに理解することができた。
映画というのは自分の感情を育むものだと私は思っている。経験したことがなかったとしても、その状況を感じることによって新しい感情が芽生える。そうして芽生えた感情を現実でも使い同じように動くと喜びを感じる。
耳たぶ
耳たぶを切開した後、どのように完治するのかが気になっていた。抜糸するタイミングが早いように感じたし、痒みのようなものが残っていたからどうなるのかが不安だった。私は最初ゾンビの皮膚のように外側の皮膚がくっつくかと思っていたのだが、よくよく考えてみると足を擦りむいたときというのは、傷口が乾燥しかさぶたになっていく。だから、私の耳の状態もその乾燥する前のぐじゅぐじゅとしている状態なのだと思った。
薬局へ行くと受付にいる私の母親と同じような年齢の女が「具合はどうですか?」と話しかけてきた。私はその女がなぜ私にそのようなことを聞くのかを考えていると「耳どうです?」としつこく聞いてくる。私は薬局に薬を買いに来たのであって診察を受けに来たわけではなかったので答える必要はなかったが、そのときの私は気分が良かった。だから、少し痒いと答えた。その女は満足し、やがて薬の説明を始めた。私は女の話に耳を傾けながら薬局の中を眺めていた。
薬局の奥の方に見覚えのある若い女がいて以前来たときにもその女がいたことを思い出した。その女は受付の方へ歩いてくると、話を聞いている私と同じように立っていた。その女はこの前と同じように親しみのある表情でそこにいる。やはり私はその女とどこかで会ったことがあるような気がする。しかし気がするというだけで全くの記憶がないのだから分からない。
ふと思ったのだが、もしかするとこの受付の女の方が私のことを知っているのかもしれないと思い始めた。どうやら私は子供の頃のインフルエンザで一度、その薬局に行ったことがあるらし。だから、もしかするとそのときの受付がこの女であり、私の処方箋の名前か何かを見たから、私のことを知っているのだと思った。
私は一方的に知っている、知られているという状態があまり好きではないのかもしれない。どちらも知らないまま、何もないままでいれば一定の距離感があって安心できる。一定の距離感以上に縮まろうとすると私は気分が悪くなることがある。関係を持つ、維持する、相手を大切にする、そんな人間関係の重さのようなものがのしかかり、急に面倒臭くなってしまう。
「もしかして、僕のこと知っていますか? ほら、子供のときにここに来ていたとかで」というようなことをわざわざ言ったりはしない。丁度切れそうな関係なのだから、どちらかが忘れるまで置いておこう。
当たりの食堂
その食堂は火葬場の近くにあった。店の入り口の横にある洗面台で手を洗い、備え付けのペーパータオルで手を拭いたとき私は小さな感動を覚えた。ペーパータオルというのは、そのほとんどが固い印象だったがその店のペーパータオルはとても柔らかくいつまでも触っていたいような気持ちにさせられた。私はそのときにはもうその食堂は上品な場所だと考えるようになっていた。細かいところに気を配り客に余計なストレスを与えない。こだわらなくてもいい細部にまで手をかけていることにとてもいい印象を受けた。
私は味だけにこだわり他を疎かにするという店が嫌いだった。例えば店のテーブルがベタついていたり、調味料を入れる容器が汚れているというものだ。客は店を味だけで評価するものではなくて、提供スピードや、小綺麗さで評価する。その中でも私は時間は重視しておらず、綺麗さを求めているため、容器の外側が汚れているというのは論外であると思う。
火葬場の近くにあった店は店が掃除されていて、テーブルも容器もベタつきがなかった。提供された品もとても美味しく私は満足感を感じ、その店へ尊敬が生まれた。
おそらくまた、行くだろうと思う。来週にでも
拝啓、未来が不安なあなたへ
将棋というものはお互いが一手ずつ指すもので、ゲームが始まる状態は対等なものとなっている。違うのは先手か後手か、それ以外が対等であるのに勝ち負けというのが目に見えて分かってしまうのが面白い。
一手の価値というのは重く、その一手が勝利に繋がるか、敗北に繋がるかが決まってくる。そしてその一手は徳を積むように建設的なものであり、私はその論理性が気に入って将棋を楽しんでいる。
そしてそれは人生にもいえることだろうと思った。確実な今日にし、それを明日もその次の日も続けていく、そうすればいずれ良い方向へ進んでいき、そのゲームに勝つことができる。ボードゲームとは違い人生の勝ち負けは個人の感覚になってくるのだが、一手一手を、毎日の一日一日を確実にしていくことは大事なことだと言えるだろう。もし、自分が追い込まれてしまったとしても、状況を変える神の一手なるものがあるかもしれない、羽生マジックのような予想不能の手が生まれるかもしれない。だが、残念なことに人生はゲームではない。努力が報われるほど神様は優しくはない。
人は少しずつ負けていくのだと私は思う。毎日少しずつ手を抜き、楽な方へ進んでいく。昨日できたことは今日もできるかもしれないが、一年後は、十年後はどうだろうか。天才でない私たちは神の一手を信用せずに徳を積んでいくしかない。未来が見えないのは当然のことでだからこそ、一手一手を一日一日を手堅く生きていくしかない。
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