第八十三回 個人的な今週のエッセイ R7.11/09-R7.11/16

お品書き
些細な行動
私は自分を健康だと思っている、だから献血をして当然だと思うことがあった。とはいえ頻繁に献血をしに行く、いわば愛好家のようなものではないからきっと、献血への意欲は他の人と大して変わらないのだろう。
献血はどこかのショッピングモールで行われているのをよく目にする。赤十字の献血カーが停まっていて、ほとんどの人は買い物ついでにその車に入っていくことだろうから献血をする手間がほとんどない。少しの手間で誰かの命が救われるという考えが私はたまらなく好きでその無駄のなさには心地よさを感じる。
そのときの私は買い物ついでに献血に行くというよりかはむしろ、献血をするためにそのモールに行こうと思っていた。モールに行ったのに献血が行われていないということがあってはならないからそれを避けるために一ヶ月ほど前に予定を確認していた。誰かの命を救いたいとかカロリーメイトが欲しいとかではなくてただ、血を抜きたかった。
献血が終わるとそのフロアに貼られている紙が目に入った。献血を受けた人からの手紙のようなものが貼られていた。私はそういったものを普段読まないのだがそのときはなぜかそれを読む必要性を感じた。「顔も知らない人」「感謝」「生きていく」「大切にする」そういった言葉が並んでいた。それを読んで献血をしよう、とか、それを読んで献血をしてよかった、と思ったりはしなかったが、自分の血と少しの時間で誰かが救われるというのが合理的で気持ちよかった。私の性格に合っているのだと思った。
暴力や自傷で地面に血が落ちる、そういった無駄な流血がなければ、どれほどの命が救われるのだろうか。無駄がない世界が美しく感じる。
好きな人と結婚しなさい
私は結婚について考えることが多い。
なぜ、結婚をしたくない男が結婚について考えるのかというと、ひとつは暇だということ、そしてもうひとつは結婚をしたくない反面、その考えが少しでも変わることに期待しているからだと思う。どうせ時間を使うのならポジティブな方がいい、というのが私の考え方なので、結婚に対する私のマイナスイメージが少しでも解消されていくようにこれからも向き合っていこうと思う。
現時点で結婚をしたい理由は自分の子供を親や祖父母に見せたい、というだけである。だからもし、レンタル彼女、レンタル彼氏、レンタル友達ならぬ、レンタル子供、レンタル孫サービスが誕生すれば私の結婚意欲は再度、限りなくゼロに近づくと思うし、祖父母や両親が亡くなれば結婚をする理由がなくなると思う。
今回はそのサービスが誕生せず、両親が生き続ける場合で考えてみようと思う。
合理的に考えると相手は異性であればいいわけだから、幅がかなり広くなり、日本人限定とすると、ストライクゾーンは日本列島の半分の大きさになる。また子供が作れなくては目的が達成できないため不妊の女性と妊娠する確率が低い女性を除いて考えてみる。
厚生労働省によると、女性は約6500万人いて、20〜24歳の女性が330万人、25〜29歳の女性が360万人、30〜34歳の女性が430万人、34〜39歳の女性が460万人となっている。40歳を超えると女性の妊娠率は限りなく低くなる。こうして数字にしてみると、1500万人ほどの女性がいることが分かるから、女性の4人に1人は対象ということになる。
20歳以下も数年後には立派な大人だが、成人男性が未成年に性犯罪を働くというのをニュースで最近目にするので除外する。だが、数字を見てみると20代以上の女性が300万人以上だったのが300万人以下に減少し、近年は減少していることが目につく。そして、病気で妊娠できない人もいるだろうから全体の1割ほどを減らせば大体の数字が浮かび上がる。
面倒になってきたので今回書きたかったことを書いていこうと思う。
私が言いたかったのは誰でもいいからと適当な結婚をすれば自分に報いがくるのではということだ。
自分のパートナーと性格が合わなかったとき、その間にできる子供と自分、もしくは子供とパートナーはきっと性格的に合わず上手くいかないだろう。性格は分類できて相性があるから、どうしても食い違いが起こる。だから性格が合わない人間と結婚をすると子供を愛せない可能性が出てくる。
子供のときによく聞く、好きな人と結婚しなさい。というのはある意味的を得ているのではと思う。
無駄が嫌い
罠にかかった猪が死に私は動かなくなった猪の毛並みを触っていた。腹を強く押すと、脂肪か内臓か、体の中の柔らかいものが反発する。そしてその奥に熱を感じた。命の残火のようにだんだんと小さくなっていき、やがてひとつの生命が死んだことが告げられる。
猪のつま先立ちのようになった後ろ足を見ていると、先ほどまで猪の首に噛みついていた毛並みのいい犬の足、それと餌をせがむ我が家のうさぎの足が重なった。猪をトラックに載せるとき、後ろ足を両手で掴むとしっくりときた。うさぎは足を触られることを嫌がるし、きっと他の四足歩行もそうだと思う。だが、すでに死んでいる猪は抵抗できるはずがないからその足を強く掴んだ。トラックに載せ終えた後も意味もなく掴んだ。私はきっと足が好きなのだろうと思った。
子供の猪が罠にかかり危険だから駆除する。私はそこまではいいと思うのだが、その後「小さいから、捌くのが面倒だ」と言って、その猪は山に捨てられた。私は無駄が嫌いだった。命がなくなるのは生命のルールであるから仕方ない、だがその命は生きているものが受け継いでいくべきだと思う。山に捨てられたとしても木々が養分を吸うかもしれない。そう考えれば無駄だとは思わないのだが、やはり私は納得できなかった。
素敵なカフェ
山の中にカフェがあると聞き私はそこへ向かった。そしてとてもいい時間を過ごすことができた。
そのカフェは母に言われて知ったのだが、どうやらカフェはまだできて3週間ほどしか経っていないと店主は言っていた。そのカフェの存在を知っていたとしても、いつその場を訪れるのかは分からない。だから昨日行ったのも偶然だった。
そのカフェは居心地がよく、その場の雰囲気を味わっていたいと思える場所だった。店主と会話をし時間が経っていく。1台の車から男性が降り、他県から来たと言う。その男性はなんだか私の知り合いに似ていて懐かしさを覚えた。私たちは会話をし、結局、日が暮れる閉店の時間までそのカフェにいた。
アジアの豆を使っているというコーヒーは時間が経っても酸味を感じず、とても不思議な味だった。
温かい色の照明が好きだから、その場にいたいと思ったのかもしれないし、その店主と男性の旅の話を聞いているのが心地よかったからその場にいたのかもしれない。
私はその時間、その場で、初めて会った3人が言葉を交わしていることがとても不思議でそれが素晴らしいものに思えてならなかった。
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