週末の唄 第十六回 個人的な今週のエッセイ R6.7/28-8/4

ブログ活動

こんにちはゆうらいふです。
暑い……。

お品書き

戦争映画

今週観た中で、面白かった映画は『戦場のピアニスト』という映画だ。
第二次世界大戦下、ナチス・ドイツの支配下にあったワルシャワで起きた話を元にした映画で、ユダヤ人ピアニストのシュピルマンをモデルにしている。

ユダヤ人の迫害の残酷さや、『夜と霧』で書かれたような、生きるか死ぬかがほとんど運で決まる戦争の悲惨さが表されていた。

戦争映画は暴力的だという印象が強く、どうしても観る気にならない。
だが、それはストーリーというよりはありのままを映してるからなのだろう。
死ぬまでに戦争映画をほとんど観ないという人もいるかもしれない。

しかし、それは、現代でも続き私たちに関係のないことではない。
酷い争いというのは、この地球上に存在している限り、誰にでも関係があり、解決するには、それぞれが傍観者になってはならないのだと思う。
『戦争=悪』といった表面上の事柄でしか考えていないと、無関係になってしまう。
無関係でいてもいいが、同じ人間が傷付き、傷付け合っているといった現状を知るためにも戦争について学ぶことは避けては通れない。

ニュースやネットでもいいが、戦争映画というのは、元にした過去の映画を描いているので、背景を知ることができ、視覚的にも感情的にも訴えかけてもらういい機会なのかもしれない。
『プライベート・ライアン』の冒頭シーンでは、負傷兵が印象的であり、『地獄の黙示録』では、軍隊の実情を知ることができる。
『シンドラーのリスト』で印象的なシーンは、ナチス・ドイツから隠れるユダヤ人が赤ちゃんを泣かせまいと窒息死させてしまったといったシーンである。

軍事関係のものは色々あるだろう。
実話を元にすれば、悲惨さを表すことができ、アクション映画にしてしまえば、敵が死ぬことに喜んでしまう。
アニメにすれば、人を殺すための道具をかっこいいとさえ思ってしまう。

見せ方によって、こちら側の感情を引き出されているわけだが、戦争に興味を持つには、入り口がどこであれいい機会なのかもしれない。

自分の考えを持たなければ、簡単に煽動されてしまう。
それが、暴力的であるかどうかに関わらず、人と関わっていればいつか起こる。

起こる前に後悔しないための予防策を打っておきたいものだ。

 

尻拭い

「人が開けっぱなしにした引き出しに膝をぶつける」
これが人生なのだと思う。

引き出しを開けっぱなしにした人も悪いが、それに気が付けず膝をぶつけた自分も悪い。

どちらかが謝罪して済む話ではないように思える。
むしろ、膝をぶつける程度で済んだことに感謝すべきだとさえ感じる。

第三者の不注意で、自分が、もしくは、自分の不注意で誰かが、

想像力が足りていないと、こういった問題が必ず起こるだろう。
注意の外側の出来事を知るには、自分を客観視し、決まった動きをしなければならない。

そして、これに気が付ける人と気が付けない人がいることを忘れてはならない。
あなたは、気が付けるだろうか?

誰かに説明したから、しつこくいったからと自分を安心させるのもいいが、そもそも相手は理解しているのか?相手は覚えているのか?できるのか?といったことは保証できない。

私は、相手を過信し、後から失望するというのが嫌いなので、相手の弱点だったり、様子というのを普段から観察するようにしている。
忘れっぽい人間には、言葉ではなくてメモ用紙を渡し、手間をかけなければならない、忙しそうな相手を見たら自分のことが負担にならないためにも手伝わなければならない。

人間は誰しも、一度で話を理解し、改善できるほど頭がいい訳ではない。
だからこそ、自分ができている、気が付いていると思うのであれば、他人に手を差し伸べて、平均を目指した方がいいのだと思う。

私は、自分をできている人間だとは思わないが、人よりも細かいことに気が付けると思っている。
であれば、作業効率を参考にし、誰かに遅れが出ることがないように作業を振らなければならないと思う。

頭人つ抜きん出る必要はない、足並みを揃えることが大切なのだろう。

 

小さな絶望

新鮮だった感覚が薄くなり、日常に同化していく時に小さな絶望を感じる

それは、好きなドラマが最終回のエンディングを迎えた時かもしれないし、飲食店での最後の一口かもしれない。

私は、適応するのが早いと思っている。
新しい環境に移ってもするに慣れることができ、ストレスもほとんど感じない。
あるのは、新しい環境に移ったことによる好奇心や興奮だろう。

慣れるのが早いとなると、新しい出来事が中和されてしまうのにも時間を要さないため、すぐに飽きてしまう。
すぐに飽きてしまうからこそ、長く続いているものには私なりの価値を置いているのだと思う。

それは、パートナーにも当てはまってしまう。
出会ってからの3ヶ月間が過ぎると見た目に慣れていき、緊張感が下がっていくという話がある。
それもパートナーが慣れていくから起きることなのだ。
いくらタイプの人間であったとしても、慣れてしまえば全てが同じ顔に見えてしまう。

そうなる前に自分なりのパートナーの好きなところを見つけなければならない。

笑顔が素敵でも、動物に好かれているでも、優しいでもいい
慣れることのない本質的なものを見つける必要があるのだ。

見た目で付き合ったカップルは、見た目で別れ、お金で付き合ったカップルは、お金で別れるという。
内面的で変わらないものを見つけるための3ヶ月なのだろう。

パートナー選びにそれてしまったが、慣れていくことに小さな絶望を感じてしまう。
面白いと思うものは、面白いと感じる自分があるから見つかるものだ。
つまらないと感じていては、灰色の人生が訪れてしまうのも無理はない。

何事にも核がある。
核を発見し、観察するのだ。

 

味付け

なすが大量にあるおかげで、毎日なすを調理している。
使いたい具材を入れ、レシピと検索すればすぐに見つかる便利な世の中だ。

なすのレシピを続けていても終わりが見える気がしない。

だが、なすのレシピを作っていると案外共通点が見つかる。
それは、なすは、にんにくや生姜、鶏がらスープの素と相性がいいということだ。
中華料理風のレシピを作っていたからそう感じたのかもしれないが、ここ最近は、にんにくを料理の中に入れる機会が多いような気がする。

なすは、水につけて灰汁抜きをする必要があるのだが、それにも慣れ、味付けをするコツもなんとなく分かってきたような気がする。

本を読む時と同じで、同系統の料理を作っていた方が本質が掴めるのかもしれないのではないか?
醤油を大さじ1、砂糖大さじ1、酢大さじ1、酒大さじ1と言われて、味が想像つくようになれば、上級者なのかもしれない。

料理人になるというのも面白そうだが、そもそも食べることがすきではなく、料理を作るのは楽しいが皿洗いをしている方が好きなのでその道はなさそうだ。

何をつくろうかを考えた時は、旬の野菜を検索をかけよう。
そうすれば、迷うことが減り値段も抑えることができるのではないかと思う。

私は、なす料理を1ヶ月以上続けているが、種類が多いと同じ食材とは思えないほど、味を楽しむことができる。

卵かけご飯で済ますのもいいが、料理をした方が満足感を得られると思う。

 

人の家のペット

人の家に上がった時に柴犬がいた。
撫でて欲しそうな様子だったので、撫でてあげるととても喜んでいた。

人間の脇の下にあるアポクリン汗腺が犬には全身にあるらしく、それが犬の臭さの原因らしい。
大型犬になるほど、その匂いが強くなるそうだ。

私は、手の匂いを嗅いでしまう癖がある。
何か汚いものを見た時だったり、触った時に手の匂いを嗅ぐことで安心することができる。
匂いが消えない時には、それが消えるまで手を洗うことで綺麗になったと考えているのだ。

人の家のペットもなるべく触りたくないと感じてしまう。
匂いが手につくのが、好きではないのだ。

祖母の家であれば洗面所に行けばいいが、人の家となると勝手に手を洗いにいくということは、あまりしたくない。

そうなると、犬を撫でた手をそのままにして家まで待つしかなかった。

どこにも触れないように注意をし、手にひらを上に向けて、膝の上に置いていた。
私は潔癖症で、どちらかというと精神的なものなのかもしれない。

いい匂いがすれば汚いと感じず、臭ければ汚いと感じるというのも面白い。
私は特にベタベタしたものが嫌いだ。

とはいえ、その人の家のペットを勝手に撫でて、汚いと感じているのだからなんだか申し訳ない気持ちだ。

 

口うるさい女

口うるさい、自己主張の強い人というのが前々から嫌いだった。
なんとなく嫌いだと思っていたものもそれについて考えていたが、それは男が口うるさい女が嫌いという前提があるからではないかと思った。
だが、中には口うるさい女が好きな男というのもいるかもしれない。

私は、小さい頃の環境から影響を受けるということが実感できずにいたが、案外影響を受けるのではないかと思うようになった。

口うるさく言われる幼少期を過ごし、それに対して何かしらの反発心を抱いた人間は、口うるさい人が苦手になるのではと思う。
ただ、口うるさく言われるのであればいいかもしれないが、中には口うるさくいっている人間ができていない、口だけという場合もある。
そのような場合であれば私は確実に反発するだろう。

口うるさい人が気にならない人というのは、口うるさく言われる経験がなかったのかもしれない。

私が口うるさい人が嫌いな理由は、押し付けられているような感覚と、去勢されたような感覚を味わうような気分になるからだ。

口うるさくしている人は、相手のためだと思っているかもしれないが、結局は自分のために行っていることが大半だ。
子供なんて、親は教師を絶対的なものだと思い接している。
そのうちに穴を見つけ、完璧であるはずだという思いと葛藤し、間違いのない人間なんて存在しないと間違いを受け入れる術を得る。

米国では、妻の口うるささに耐えきれずに殺害してしまうという例が絶えないようだ。

言葉の暴力も身体的な暴力も脳は、判断することができないという研究もある。
つまり、妻の言葉がショットガン並みのものだったから、ショットガンをお返ししたといったものだのだと思う。

流石に殺めようとまでは思わないが、瞬間的な怒りというのは、引き金を引く程度には高まるのではないかと感じる。

 

終わり

人間観察を行うという一週間ではなくてどちらかといったら、自己分析のようなものが多かったかもしれない。

本を読むと、作者の叫びというのが伝わり、私の代わりに思いを爆発してもらうような感じがする。
最近は、映画ばかりで本を全く読めていないので、何か物語に浸りたいと思っている。

私にとって書き出すことは、呼吸であり、叫びでもある。
叫びを後から見返した時に見つける発見というのは、一種の劇薬のようなものかもしれない。

生きるために使いたい口が無駄に動いて人を傷つけてしまったりすれば、食べるために喜びを感じるのではなくて、人を見下すために喜びを感じているようなものだ。

私は口ではなくて、手や頭で叫びを表現したい。
外に出なければ、見つけられなければ、存在していないのだから。

 


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