第四十五回 個人的な今週のエッセイ R7.02/16-R7.02/23

お品書き
村田沙耶香コンプ
私が初めて、村田沙耶香の本を読んだのは、約3年前のことだった。
実用書を多く読んでいた当時、なんとなく目に入った海外小説や、国内の有名な小説を読んでいた。実用書は、具体的な使い方が書いてあるので、私好みであったのだが、”より多くのジャンルを読んだ方がいいのでは”と考え、小説にも手をつけるようになったのである。
私が小説に持っていたイメージは、静かでつまらないといったものだ。どこか堅苦しい印象を感じ、読むことを拒んでいたのだと思う。
「生命式 村田沙耶香」本棚に一際目立つ帯が添えられていた。
そして、この本に出会った時、私が抱いていた小説への価値観が音を立てて崩れた。というか、彼女にぶち壊された。
「生命式」という本の内容を簡単に説明すると、『葬式の代わりとして、生命式として、死んだ人を料理するという世界』や『人が死後、家具やアクセサリーとして再利用される世界』など、村田ワールド全開の世界観が織りなす短編集となっている。ちなみに私が好きな話は「すてきな食卓」という話だ。
意識高い系の栄養食(青い、ジェル状の食べ物など)、お菓子しか食べない男、妹の前世の記憶(魔界の記憶)を元に作った食べ物(たんぽぽの茎をオレンジジュースで煮詰めたもの)、虫の料理(イナゴの佃煮)が同じ食卓に並ぶという話だ。食事を信じるものとして、インディビジュアリズムが語られている。
そして、今回、私が推している作家の村田さんについて触れたのには、訳があり、私が読めていなかった村田作品にやっと、出会うことができたからだ。その作品は、「タダイマノトビラ」という本で、ずっと探していたのだが、なかなか出会うことができずにいた。
彼女の描く登場人物は理屈的な人間が多く、「タダイマノトビラ」に出てくる主人公もまた、理屈的な人間だった。それは、村田さん自体が理屈的な性格をしているからではないかと思う。
「どうして、家族を愛さなければならないのか? 家族だからって、そのシステムを守る必要は本当にあるのか?」
「タダイマノトビラ」にはそんなことが書かれていた。
普段、無視している、私たちが一歩立ち止まった時に感じる違和感を言語化したものがこの本だと思う。
私が彼女の作風に惹かれるのは、私自身も理屈的であり、それが共鳴しているからだと思う。私は、自分に合った作家、本に出会うことができて、とても幸運だと感じている。
それがなければ色々な作家を読み漁ることはなかったことだろう。大きな存在だと思う。
お気に入りの映画、お気に入りの本、お気に入りの料理、なんでもいいので、自分の魂が震えるようなものと出会えたらいいと思う。好きというのは、いわば、羅針盤のようなもので基準ができると、バラバラだったものが優先順位を元に組み合わさり、そして、完成する。
私にとって、村田沙耶香がそれだった。
小説の面白さを知るきっかけとなり、様々な価値観を多様的に見るきっかけになった。絶対的な悪は存在せず、そして絶対的な善も存在しない、多様的に物事を見ると、世界に優しく、自分に優しくなれる気がした。
お値段以上
先週の日曜日に予約した本棚は、私が想像していたよりもずっと、お値段以上だった。その本棚は、段が全てで7段あり、高さが約180cmある。それぞれの段は互い違いとなっており、棚の高さを自由に変えることができる。
私が、その棚を見つけた時、すぐにそれを買うことを決めた。容量がそれなりなのと、なんといってもデザインが、私好みだったからだ。
本棚には、多くの隙間が残り、その隙間は私の心を踊らせた。それはこれから出会う素晴らしい本たちとの出会いを表しているように思えたからである。依然として収納されている本たちは、私が選りすぐったものたちで、古本屋へ連れて行かれた本たちの意思を受け継いでいる。
どんな本を埋めていこうか、それは本好きにとってはたまらない問いかけではないだろうか?
小説で埋めたい、では、この段には国内小説、この段には海外小説。
ジャンルはどうしようか、この段にはSF、この段には、純文学。
本棚の完成が近づくにつれ、数年後、その本がどんな姿をしているのかを想像していた。
図書館に行けば、たくさん置いてあるではないか?
確かにそうだ。管理の手間もかからない、しかし、私がこだわるのには理由がある。それは、『お気に入り』を手元に置いておきたいという気持ちが最大の理由だ。
自分に子供ができた時に読ませたい本として、本棚を選別している人もいるらしい。
あと何回読むか分からないが、その本を読んだ当時の出来事、匂い、感情、それをすぐに思い出すには、やはり手元に置いておくのが一番だろう。
自分の身の回りをお気に入りで埋め尽くしたい。
目に入った時にふと、笑顔になるような、手に持った時に温かな思い出に触れることができるような、そんなお気に入りに囲まれたい。
当然だと思っていたこと
環境に変化があってから、約1年が経過した。
私が社会人になった時、真っ先に感謝を伝えたかったのは母親だった。
当時の私は、自分のしたいことをするため、いかに不必要な時間を取り除くか、そんなことを考えて生活していた。
時間には固定型と流動型があることに気がついた。家賃のようなもので、家賃や水道代は、月毎に大きな変化はないため、固定型となり、食費は外食が増えれば、自然と生活費が上がるので流動型となる。
時間の中で固定型は、食事や睡眠など生きる上で必要なこと、洗濯や風呂など、清潔感を保つ上で必要なこととなる。(余談だが、風呂キャン界隈と呼ばれる風呂に入らない若者がいるようだ。私はそれが汚いと思うし、本当にありえないと思う。風呂をキャンセルしてまで、時間が惜しいというのは異常だと思う。風呂は命の洗濯だとミサトさんと言っていたが、もっと別のことをキャンセルできないのかと思う。本当にありえないと思う。)
そして、時間の中で流動型は、人と交際に使う時間や待ち時間、削ろうと思えば、削ることが時間になる。
そして、もう一つが浪費のような時間で不必要だが、息抜きとして必要な時間ともいえる。
当時の私が考えていたのは、浪費を減らすこと、そして自己投資に使う時間を管理するということで、余った時間ごとにできることを限定することで、浪費をしないように管理していた。とても極端だが、効果はあった気がする。
自分で洗濯やら、食事やらに時間を使い始めたことがきっかけで、母親が家族のために時間を使っていたことに感謝をするきっかけとなった。
子供の頃に当たり前だと思っていた、母親が身の回りを整えてくれると言ったことは、もちろん母親としての役割なのかもしれないが、文句を言わずに、感謝をされずに、毎日決まったことを決まった時間に行う母が、とても偉大に感じた。
私の母親は、職場にも通っている。
家に帰り、食事を作り、洗濯をし、残った少しの時間を趣味に充てる。
私は、家族として、協力し合う必要があると思った。私が自分の時間を十分に使いたいように、母親もそうだと思ったからだ。
固定観念から、母親が家事をするということが普通になってしまっている。
今まで、気が付けなかった自分に嫌気がさし、不公平さに腹が立った。
社会人になって感じたのは、大きな親への感謝だ。恐らく多くの人もそうだと思う。
人間は一人で生きられないから、群れをなして行動をしている。だから、自分一人分の役割を果たさなければ、誰かが肩代わりすることになってしまうのだ。当然だと思っていることは、習慣として体に染み付いているし、思考にも染み付いている。それに気づくことは難しいし、変えることも難しい。
感謝は、言葉ではなく、行動で伝えるべきた。
少しでも、相手の時間が増えるような行動をし、楽にしてあげるべきだ。
おかげで私は、一年間で料理の腕が上がり、家族に尽くすことで、私なりに家族を感じられることができた。
私は、潔癖症なので、自分が違和感を持ったことを解消することに努めている。目に見える不公平さをいかに解消する。外部への押し付けではなく、私自身の解釈が自己満として解消される。
感謝を伝えるとか、照れくさいと思ったら、行動で示そう。
肩揉んだり、皿洗ったり、掃除したり
相手の負担を少しでも軽くしてあげよう。
8000円
祖母を連れ、家族でココスに行った。
子供の頃は、よく連れて行ってもらっていたが、家族で行くのもココスに行くのも、久しぶりだった。
私が頼んだのは、ハンバーグとステーキが半分ずつのったプレートで、それにライスとスープバーをセットにした。食後にはデザートを頼み、なんだか懐かしい時間だった。
会計は8000円だったが、8000円というのは高いのだろうか?それとも、安いと感じるのだろうか?
8000円払うとなった時、その価値に釣り合うと判断できれば、購入をするだろう。今回、家族で穏やかな時間を過ごし、懐かしさという感情が心を満たしていた。その価値は8000円をゆうに超えるものだと私は思っていたので、とても安く感じた。
値段というのは残酷で、人間の感じた価値を見える化したものだ。
人によって感じ方は違えど、それに見合った価値を感じられた時に
その値段<価値となり、自分の資源を使ってもいいという選択をする。
だが、これには落とし穴があり、価値に自分の価値観を合わせてしまうということにもなる。
食べたいものよりも値段を優先するというのは、賢明な選択かもしれないが、現実的すぎるのは良くないのではとも思う。
自分にとってどうでもいいことには、資源を払う必要はないが、体験したことのないこと、自分が価値を感じていることには、惜しみなく使うべきだと思う。
時間も、お金も、労力も限られている。
いつかは、来ないかもしれない。今、必要だと思うことに資源を使う、衝動的な支払いを、直感を頼りにするのも悪くないと思う。
計画的な人生で運命的な出会いではできない。
予想外の行動を少し入れることが必要ではないのだろうか?
贅沢品
大人を見ていると、「今の生活に満足しています」という嘘を自分についているように見える。
逆に若い人を見ていると、「やるべきことがある」と、あたかもそれをしなければ、生きる価値がないと言ったような、極端さを感じる。
現実を見過ぎれば、振り返った時につまらないし、夢を見過ぎれば、失敗した時の取り返しがつかなくなるかもしれない。
私は、夢を見ることは贅沢なことだと感じた。
20代の私にとって、大人というのは40代くらいの人たちを指しているが、今の40代は就職氷河期と呼ばれる、不景気の残りかすのような時代に生まれた人たちだという。全体的に見て、不遇な世代だそうだ。
40代の人たちが、現実的な背景にはそんな、不安定な社会情勢が隠れているのではないかと感じた。逆に私たち20代は、ある程度の環境が整っている。一人でも楽しむことができ、働く場所も多くある。
サブスクに登録すれば、ドラマやら映画を観て、時間を溶かすことができるし、なんらかと優遇されている世代だ。
余裕があるから、夢を見るのではないかと思った。
人に親切を働くのは、余裕のある人だけだと、私は思う。
追い込まれている人間は、人に優しくなどせず、生きることに必死なことから犯罪に走ってしまうかもしれない。
それと似ていて、社会全体に余裕があり、夢を見る若者が多くいるのではないかと思う。
だから、なんですかと思うかもしれないが、大人が夢を否定するのは、そんな理由からではないかなと思った。そして、不況を知っている人からすれば、好きなことをしている若者が少し、危なっかしく見えてしまうのではないだろうか。
お互い優しく、いきましょう。
贅沢品を食べないとつまらないし、毎日食べていても飽きてしまう。
たまに食べるくらいがちょうどいいのだと思う。
ゆうらいふをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。











