透明人間

安倍公房の作品を読んでいると『透明人間』という言葉が引っかかった。
透明人間は創作物に登場するもので似たものに幽霊が挙げられると思う。両者の違う点と言えば、生きているか死んでいるかといったものだろうか。幽霊のイメージは自我が薄くなり燃えかすのようになった存在で、透明人間は単にこちら側からは見えない人間なのだが、隠し撮りをされているような不快なイメージがある。
安倍公房の『箱男』では透明人間と箱男が似ている存在として扱われていた。そこに確かに存在するのだが、(いや、自分の存在を消すことはできないのでダンボールに溶け込んでいるといった方がいいのかもしれない。)傍観者として、その世界を一方的に見ていたいという願望が表れている。同著者の『壁』にも影を盗まれて透明人間になった人物が登場するのだが、これは一種の作者の願望なのだと私は思った。私自身、干渉をされるのが嫌いで人との接点は最小限度でも十分だと思っている。もちろん、信頼している人には自分を表現することもあるが、それは相手を安心させるためというか、自分に攻撃の意思がないことを伝える作業に似ているのかもしれないと思う。
もしも自分が透明人間になった時に何をするのかを考えた。まず、透明人間になるということは誰にも見られることがないということだから、責任が全て無くなり、自由を意味すると思った。存在しているのに見えないものだから、税金などの支払い義務もなくなるだろう。ただ、全てを自分で行わなければならないという問題もある。カフェに行っても注文はできないし、病気になっても医者に診てもらうことはできない。全ての責任から逃れる代わりに自分のことを自分で行うといった自主性が必要になるだろう。そして、今度は倫理や道徳的な問題と対峙することになると思う。本屋に行って本を読んでも、飲食店でつまみ食いをしても、姿が見られないのだからなんでもできてしまう。私がその立場にある時は、むしろ気にしないと思う。気にしても仕方がないと思う。むしろ、気づいて欲しくて無茶なことをするかもしれない。見えていないかもしれないが私は存在はしている。その存在を認知しようとしないことに問題があると考えてしまう。
透明人間になったら旅をしようと思う。日本を回ったら、飛行機に乗って海外にも行ける。透明人間になればお金の心配は一切なくなると思うからどこにでも行くことができる。ただ、その感動を誰かと共有することはできない。それが唯一の欠点になってくる。だから最終的には透明人間を探す旅になると思う。自分と同じような人間を探して、感動を共有すると思う。
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