ショート・ショート 『感情を食べる男』

男は、感情を食べることができるようになった。
それは、感情が分からない男へ、神が授けた贈り物なのかもしれないし、悪戯にサイコロを振っただけなのかもしれない。
男が初めて食べた感情は喜びだった。
橙色と発光色を混ぜたような色のモヤが、周囲を漂い、そのモヤからは、青々とした草原の爽やかな香りを感じた。ほんの少し漂う甘い香りからは、生命の誕生を思い起こさせた。
口角を上げた女性が私の前を通り過ぎると、私の目の前にはモヤの道ができた。
モヤは手に触れることができ、柔らかさを感じたが、掴むこともできた。
私は、その感情を掴むと、一口食べてみることにした。
瑞々しさが口の中に広がり、すぐに消えてなくなってしまった。
飲み込むと同時に体内からは、暖かさが湧き上がり、幸福感に包まれた。
家に帰る途中で、母の顔が頭に浮かんだ。
家の近くにある花屋で、母の好きな花を買い、渡した。
母は嬉しいと言いながら、涙を流し、口角を上げていた。
母からは、私が食べた感情と同じものが溢れているように見えた。
私は、それが喜びなのだと知った。
次に男は怒りを食べた。
道を歩いていると、肩を左右に振って歩く、図体の大きな男とぶつかった。
男は、舌打ちをして鋭い目をこちらへ向けると、歩き去ってしまった。
男からは、赤い感情が流れていた。
その感情は、熱を持っているようで、その感情を手に取ってみると、真っ赤な唐辛子のように見えた。
一口食べると、体の奥から熱が湧き上がり、すぐに頭の方まで登っていった。
頭が重くなっていくのを感じていると、誰かの肩とぶつかった。
私の内側からは、熱が湧き上がり勢いに任せ、その男へどなった。
男の顔がとても憎く感じられた。
周囲に人だかりができているのにも関わらず、私たちは怒鳴り合った。
中には喜びを纏いながら撮影する人もいた。
とにかく、周囲の人間全員が憎かった。
殴り合いの喧嘩になり、私の渾身のパンチが、相手の左頬を捉えると、男は倒れてしまった。
それと同時に周囲の感情が私の中に入ってくる。
喜びだった。
私の中には、太陽のような暖かさが、じわじわと広がっていき、目の前に倒れている男に手を差し伸べた。私の口角は、自然と上がっていた。
男はすぐに立ち上がり、私に鋭い目を向けると、その場から去っていった。
私は、それが怒りなのだと知った。
次に食べた感情は悲しみだった。
家に帰ると、家に母はいなかった。仕方なく、一人で夕食の準備をしていると、警察から電話がかかってきた。
買い物が終わり、家に向かっていた母は、バックを掴まれた。必死に抵抗する。
ひったくりにあったのだ。相手は、母を突き飛ばすと、母は頭を強く打ってしまった。
たまたま近くを通りかかった人が、救急車を呼ぶが、母は意識を戻さなかった。
私は、すぐに葬式の手配をし、母の友人たちに電話をかけた。
母は死んだ、だから、私はやるべきことをした。
やるべきことをしている時というのは、何も考えなくてよかったので、都合が良かったのかもしれない。
母の入っている箱は、次々と覆いかぶさっていく土によって、地面にのみ込まれていくようだった。
背後からは、母の知り合いらしき女性が、啜り泣いている。その音が、母に届くことはなく、その女性自身の儀式のようなものなのだと思った。
周囲には、灰色の感情が漂っていた。花の香りもあったかもしれない。
灰色の感情に手を伸ばし、一口噛んだ。
それは、固く、冷たく、そしてしょっぱかった。
灰色の感情は、私の中へと入っていくと目頭が熱くなっていくようだった。
私の目からは、周囲の人たちと同様に液体が次々と流れ出ており、それが悲しみなのだと思った。
だが、私の中には、もう一つ別の感情があった。
私は、それが感謝なのだと思った。
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