第四十回 個人的な今週のエッセイ R7.01/12-R7.01/19

お品書き
祖父の誕生日
祖父が誕生日を迎えた。私の祖父は、お返しを大切にしており、祖父からは、コミュニケーションの上手さを学ぶことが多かった。酒が好きなので、酒をプレゼントした。
私は、人の誕生日を覚えるのが苦手だ。自分の誕生日でさえも、あまり興味がない。だが、そういった特別な日に人に感謝を伝えるというのは、シャイな日本人にとっては好都合のイベントのように思える。
祖父の腰が悪くなり、動けない祖父の代わりに農作業の手伝いをしていたのが、去年。あまり知らない祖父の一面を知ったことで、私は家族のことをあまり知らなかったのだと、痛感した。
人生で長いのは、家族との時間よりも仕事の時間であるから、家族との時間を大切にすべきだと思う。
年に平均4日、家族に会い、家で6時間ずつ過ごす。
そうすると、一年で24時間一緒にいることになる。
もちろん、6時間ずっといるわけではない。
私たちが子供の時にほとんどの時間を家族と過ごすが、生涯で家族と過ごす時間の平均は約9年。
社会人になると、一年に1日(24時間)。
つまり、家族一人の寿命を日数に置き換えた時間が、家族との残り時間となる(父親が50歳だとしたら、平均まで25年。つまり、25日となる。)。
自分の人生は長いかもしれないが、誰かとの別れは必ず起こる。
その時に感謝を伝えることができなかった。というのが一番苦しいだろう。生きるということはそういうことだからだ。
だからこそ、なんでもいいから、感謝を伝えるべきで、誕生日であったり、クリスマス、なんでもいいが、イベントというのは、感謝を伝えるにはもってこいのイベントだと思う。
それぞれの家庭環境があるので、必ずしも感謝をしているわけではないだろう。だが、残り日数を聞いて、思うことがあるのであれば、気持ちを伝えるべきだ。
一言だけでも。
剪定
キウイの剪定をした。どうやら3月までに枝を落とす必要があるそうだ。去年収穫したキウイは、実がなりすぎたせいで、小さいものが実ってしまった。
大きなキウイを育てるために他の枝を切り落とすというのは、オーディションのようなものだろう。才能を探すために、他の人には諦めてもらう。そうやって、勝ち抜いたものを収穫するために他の人たちは、必ず犠牲になる。それが自然界の法則だと思う。
必要のない枝など分からない。どれも同じに見える。だが、オスの枝を切るのは簡単だった。外に広がっているものは、そこにメスがいないから切っても構わないし、上に伸びているものは、広範囲に影響を与えるだろうと思い、残すことができる。
剪定をすることによって、必要のない枝に栄養がいかず、残ったものに栄養がいく。不必要なものを捨て、必要なものに養分を行き渡らせる。
それは、ミニマリズムだと思った。
必要のないものに割く栄養などない、それを自分が育てているものに行かせ、最高の実を実らせる。
それが少なければ少ないほど、上質なものが出来上がる。
大切なのは、色々なことをやろうとするのではなくて、不必要なものを切っていくことだ。現実でも、自分が小さく感じたら、剪定をすればいいと思う。自尊心を高めれば、少しは楽しくなるかもしれない。
ロンドンパンツ
テレビで面白いニュースが流れていた。ロンドンで地下鉄を利用している人がみんなパンツで乗車しているのだ。
どうやら1月12日は「ノーパンツデー」というもので2002年にN Yで開催されたイベントが起源になっているらしい。
「ズボンを穿かないで地下鉄に乗ろうよ!」そういったスローガンを掲げているようだが、ニュースで流れた時に私の口角は自然と上がっていた。意味はともかく、それをみた人が、そのシュールさに「面白い」と思えれば、それはそれでいいのだと思う。
ギャグ漫画というものと似ているのかもしれない。シリアスな場面を和ませたり、創作の中に組み込まれているテクニックの一つかもしれない。現実世界の生真面目さを和ませるのには、いいイベントだと思った。
笑ってはいけないというお笑いだったり、ノーパンツデーだったり、まるで、イチゴの酸味を生クリームで中和するショートケーキのようなそんな効果があるのだろう。真面目すぎず、ふざけすぎず、結局は極端すぎない方がいいよね。というメッセージが伝わってくる。
各国の代表たちが何か会議をするときなどに、ズボンを忘れていくというのも面白いのではと思った。
くだらなさというのは、平和そのものだと思う。
読んで、書いて、伝える
小説家になる方法。それは「読んで、書いて、伝える」それを繰り返すしかない。では、具体的にどのくらいなのか。それは、知りたいジャンルの本を1000冊読み。プロットと合わせて3ヶ月から半年、そして、長編の作品を書きながら、毎月、短編小説を執筆する。そして、誰か人に読んでもらい、感想を聞く。
それを繰り返すしかない。果てしないかもしれないが、小説家は死ぬまで書き続けることができる。いつ死ぬか分からないが、時間はたっぷりあるはずだ。
もちろん、テクニックもある。だが、細かいテクニックは、書いているうちに生じた、違和感を感じた段階で解消していけばいい。その方が効率が良さそうだ。
私がやろうとしていたことは、全てを学んでから、書いた方がいいのでは、という方法だ。だが、それだと時間がかかり過ぎてしまう。結局は、やりながら学ぶというのがいいのだろう。
私は読んでいたら、書きたくなったという人だ。そんな人がいれば、ぜひ書いてみて、誰かに読んでもらうことを勧めたい。小説家は、全体の一部を担っているわけではなくて、全てを自分で作り上げるという職業だ。結果が、悪かった(数字が出せなかった)。としても、自分がそれでいいと思えばいい。
エゴイスティックな職業と言える。
誰かに首を垂れることに不満を持っている人には、最高の職業かもしれない。
「読んで、書いて、伝える」は小説家だけにに当てはまることはない。
学んで、実践して、相手に評価してもらう。それは、どこでも当てはまる。正解を見つけるための一連の流れだと思う。
やっていれば上達する
ある小説家がいっていた。
「書く技術というのは、嫌でもついてくる。書き続けさえしていれば。だが、歳をとると、面白いと思えるものが減っていく、慣れていくから」
私も書いて飯を食う人を目指しているが、自分の文章が上達していると、感じるのはせいぜい、昔の文章を振り返っているときだ。
積み上げてから、書き始めた方がいいと私は思っていたが、今の自分の表現を形に残すという方が、作家のためになるという。形に残らなければ、評価のしようがないし、まずは終わらせるという工程が大切だからだ。
考えることは難しいし、書くことも難しい。自分の書きたいものを相手に表現するというのは、一種のコミュニケーションともいえよう。
だが、私たちが、普段しているのは、「会話」ではなくて「おしゃべり」だかも知れない。自分の言いたいことを言うというのは、会話ではなく、ただのおしゃべりで、それはコミュニケーションとは違ったものに思える。
技術を知り、やってみて、違和感を消していくのが手っ取りのではないかと思う。年月が過ぎて上達していくのであれば、今。面白いと思えるものと全力で向き合い、感性が死んでいく前に経験していくことがいいと思う。私は、そこまで歳をとっていないと思うので、それが本当なのかどうかは、分からない。
だが、人は慣れていくものだと思っている。ピーマンの苦味が消えていくように、子供の時に受けた刺激に慣れていき、歳をとっていく。だから、あながち間違っていないのかも知れない。
とりあえず、進みたい道を決め、それを歩いていくしかない。歩いていけば、後ろには足跡ができている。
目的と障害
小説で登場する主人公に大切なのは、「目的と障害」である。
目的というのは、主人公が目指すもの、作者が目指すもの、読者が目指すものを指し、障害というのは、それを邪魔するものを指す。
障害には、時間であったり、ライバルだったり、理不尽だったりがある。
小説について学んでいると、この世界を学んでいるような気になる。
この世界のどこかを投影しているのが物語なわけなので、それは当たり前のことなのだが、物語と現実で全く捉えられ方が違うものがある。
現実の障害は、嫌なものかもしれないが、物語の障害は、「物語を面白くする」、「読者を引きつける」のにかなり、役立っている。
現実では目を背けたくなるものも、物語だと、どこか他人事のように思えて、のめり込んでしまう。
現実と物語の違いはなんなのか?
参加している。か、参加していない。か、面白い。か、つまらない。か。
現実世界の疲れを物語で癒すのでも、現実世界での共感を物語の中で感じるのでも、読む人それぞれの楽しみ方があると思う。
物語というのは、人の心を掴んで離さないので、そこから学びを得る場合もあるだろう。
物語設計の本質は、人生設計ともいえる。
一人の主人公を作り、性格と、過去を与え、目的を与えれば、リアルなものができあがる。目的を妨げる壁を作り、それを乗り越えさせることで成長させていく。
私たちも成長していかなければならない。
私たちの設計者が、私たちのことを見ているかもしれない。
終わりに
世界遺産検定まで残り「50日」を切ってしまいました。
問題集を解いていると、自分の理解が追いついていないものをよく目にします。世界遺産を知れば、旅行が楽しくなる。世界遺産と一緒に歴史を知れば、小説の役に立つかも知れない。そんな感じで、なんとなく始めたものですが、自分の知らない情報を得た時というのは、かなり気持ちがいいものです。
地道にやっていきます。
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