第八十七回 個人的な今週のエッセイ R7.12/07-R7.12/14

ブログ活動

 

 

お品書き

 

多分、風邪。

土曜は図書館に行った。本の貸し出し期間開始を休日にしたかったのと、今回は秋田旅行中に本を読み終えてしまったから、また新たに芥川賞の補充をしたいと考えていた。本の貸し出し期間は2週間だから、年末にまた図書館に行って、年越しを別な芥川賞で迎えたいと考えている。

いつもならこの『個人的な今週のエッセイ』は日曜日に書くのだが、日曜日は一日中寝込んでいた。土曜日は寒気があり、透明でサラサラとした鼻水が止まらなかった。そのような状態のまま公共の施設に足を踏み入れるな、とも思ったが、土曜日の時点ではただ、鼻がつまるアレルギーだと思っていた。夕方になってもその寒気は治らず、風呂に入っても一向に温まった気がしなかった。そしてようやく風邪だろうと思い直した。市販の風邪薬や頭痛薬を飲んだ。寝る前には本を読むのだが、文字が頭に入らずにやめた。

風邪の日というのは眠気がずっと続くから、いつまでも寝ていられる。今日になって、身体の軽みを感じた時にやはり調子が悪かったのだと感じた。完全にではないが、昨日のよう頭痛と身体のだるさがなかったからだいぶ楽だった。日曜日は一日中寝ていたから、今日はなんでもできる気分だった。太陽が出ていて、気温が暖かかったから、私は気分が良かった。

 

 

一人旅のすすめ

母親に、一人旅をしたことがあるかと聞いてみたのだが、「ないんだよね」と言うばかりだった。なんで、とは言わなかったし思わなかったが、実際に一人旅をしてみると、一人旅はした方がいいという結論に至る。
一人旅はまず計画作りから始まる。どこに行き、どこへ泊まるのかさ決めてしまえば、あとは勝手に進んでいく。私は温泉が好きだから、温泉がある場所がいいと思っていた。乳頭温泉郷を勧められ、その周辺の観光地を調べてみると、日本一透明な湖と、武家屋敷通りがあった。あとはそれぞれの時間配分を考えて、それに合う交通手段と乗降時間を調べれば簡単に予定が組み上がった。

誰かとの旅行と一人旅との一番の違いは会話相手がいるかどうかだろう。誰かといると、その人と会話をし、その人以外との会話はなくなる。相手がいるかどうかは自分が話したいことと直結するから、心理的にも異なる。一人であればもちろん読書のような一人の時間を持ってもいいが、私が面白いと思ったのは、同じく一人旅の人間との会話だった。旅行気分でいると、自然と一人旅の人間が仲間のように思えてくる。私と同じように一人旅なのだろう、という親近感のようなものが湧き、会話が起こる。同じ学校出身というようなものと似て、気軽に「どこから来たんですか」と言葉が走る。

そして、そのような旅の関係というのは希薄で実に私好みだった。これから関係が起こることはないし、二度と顔を合わせない場合がほとんどだろう。だから、無理に気を遣って言葉を選んだりせずに気楽に会話をすることができる。私はこれを何かと似ていると思った。少し考え、オータキ現象だと思った。

職場で顔を合わせると挨拶をする人がいた。まるで友達のような会話をして、いい印象で別れるのだが、私はその人と遊びに行ったことがなかった。誘おうと思ったことはなかったし、誘われたこともなかった。私たちは顔を合わせると挨拶をし、直近の出来事を話した。それはそれ以上もそれ以下もない完璧な関係だった。不思議なことに私は日常でその人のことを考えることがなかった。日常に入り込んでしまっているのか、それが普通なことだと思っていた。相手の誕生日も好きな食べ物を知らない。日常ではほとんど忘れていて、その人と会った時、挨拶を交わした時にその人の記憶が現れる。実にコスパが良かった。人との関係というのは実にめんどくさく、誕生日の祝いの言葉を送らなければならないし、遊びに誘われ、自分がそれを魅力的に思わなくてものらなければならない。非効率にしか思えない。私は一人が好きすぎる病気なのだろう。だから、希薄さこそが正しいと確信している。だからこそオータキ現象と名付けたそれと出会った時は革命だった。コスパのいい人間関係、お互いが時間、資源を侵食せず、だが、それでいて距離感は一定を保っている。私にとってそれは完璧な人間関係だった。

脱線したが、一人旅で出会う人間はオータキ現象と似ていると思った。別の旅で顔を合わせればもしかしたら、会話が起こるかもしれない。そんな容量を取られない人間関係。

一人旅というのはどこかに一人で行くという中に、そういった人との出会いというものが隠れている。一人で観光地にいれば話しかけられると思うし、同じ宿に泊まっているというだけでも仲間意識が芽生える。角館の武家屋敷の受付にいた女性は私の住んでいる市と全く同じだった。地元から離れているのに地元を感じることができるというのも一人旅の楽しみなのかもしれない。

 

 

美的感覚

美的感覚というのはどのようにして養うことができるのだろうと考えていた。建築も文学も音楽もなんでもそうだと思うが、極めた先には必ず美しさをがあるように思える。建築は、外観の美しさとそれに劣らない機能性の実現。文学は、世界を創造するかのような表現力。音楽は、高等な芸術であるから私には分からないが、絶対音感を持つ人間にはきっと、世界が音階で見えているのではないかと思える。
美しさという感覚的なものは技術を磨いたとしても、身につくとは限らない。しかし、見えない法則性のようなものを感じ取って、その無意識的を拾っていけば、法則に沿った美しさのようなものが出来上がると私は考えている。物事を倣っているいる時に感じとるコツと同じように、法則が身体の中に刷り込まれていくのではないかと思っている。

美しさは地球の法則、あるいは自然的なもの、というのはあながち間違いではないと思う。虫が葉に卵を産みつけるとなぜか、規則的な並びになる。それは感情を持たない虫の虫の冷たさゆえの合理性だと私は思う。植物の葉は太陽の光を浴びるように成長し、他の植物と光の奪い合いを行う。水の流れに魅了されるのは、自然が時間をかけて作り上げたものに感動するのは、きっとそれらが地球の法則に沿って長年、生きてきたからである他ならない。法則に律儀に従う自然のその中に私が求めるものがあるように思えてならない。

 

 

洒落た日本語

十六夜と書いて、「いざよい」と呼ぶのだが、この言葉にはどんな意味があるか知っているだろうか?

十六夜と似ている十五夜は、十五夜お月様として旧暦8月15日の月を指している。これは一年で最も綺麗な月のことをいっているのだが、十五夜と同様に十六夜も、とある日の月を指している。それは旧暦8月16日の月のこと、十三夜というのもありこれは、のちの月と呼ばれる。のちの月は、8月15日の次に綺麗な月と言われ、旧暦9月13日の月。では、十六夜にどんな意味があるのか。
十六夜というのは「滞る」という意味がある。これは『十五夜の次の夜に上る月が、少し遅れて上る』ことからつけられた意味だそうだ。
いざよう、などと今は使わないだろうが、この言葉を考えた人は洒落ていてセンスがあると思った。普通、月を見てそんなことを思いつきはしない、日本語には美しい表現が数多くあると思うが、センスのいい人たちが作り出したそれらの表現はとても真似することはできない。後世に残っていて欲しいと思えるようなそんな響きが感じられた。

 

 


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