第八十八回 個人的な今週のエッセイ R7.12/14-R7.12/21

ブログ活動

 

 

お品書き

 

鼻水

鼻詰まりはこうもストレスが溜まるのかと、先週の土曜日にはうんざりとさせられた。普段は持ち歩かないポケットティッシュを2、3、ポケットに押し込んでいつ垂れてくるか分からない鼻水を待ち受けながら本に目を落とす。風邪を引いたという実感がなかったから公共施設で鼻を啜っていたが、それは立派なテロ行為なんだなと後で気付く。そのまま順調に日曜日にはダウン。1日横になって、月曜日になると身体に力が有り余っているような軽さに驚いた。試しに肩を回してみると、何度でも回していたくなるような、抵抗感のない動きが続き、首も軽かった。頭痛も消えていた。「寝れば治る」という格言めいたものを唱えながら私は週の始まりを実感していた。
だが、今週は1週間を通して鼻は不調だった。肩を故障した野球選手が自身の肩と相談しながらキャッチボールをするようなもので、私も自分が本当に調子がいいのか、それとも熱があっておかしくなっているのかを見定めていた。熱はなかったから、きっと治ったのだと思う。鼻を噛むと黄色く粘着性の鼻水がティッシュにこびりついたから、回復の合図だと思う。ただ、鼻はむずむずとしていたし、噛んでも噛んでもスッキリとしなかった。ゴミ箱は必然とティッシュでいっぱいになる。鼻水が垂れ、それを吐き出すためにティッシュを手に取り、今度はくしゃみの前兆を感じティッシュを手に取る。手に取ったティッシュで鼻水を拭き取ると、雨にでも打たれたかのように水分を吸い込んだティッシュに様変わりし、それをなんの感情もなくゴミ箱へと投げる。少しは感謝でもした方がいいのかもしれないと思った。「鼻を噛ませてくれてありがとう」とか、「助かった、これで辺り一面に体液を撒き散らさなくてよかった」とか、何か気の利いたことを言った方が良かったのかもしれないと思った。実際私は助かっていたし、ほとんど溜まることのないゴミ箱が連日いっぱいになっているのも珍しいことだった。だが、相手はそもそもそうされるために作られたものであり、それが「ティッシュ」というものだから、「別にいいよ」とでも言いたげにゴミ箱の縁に腕をかけるようにくしゃくしゃになっていた。

 

 

思い出拾い

川の少し大きめの石をどこか凹んだ崖に埋め込むために土手に上げていると、その石の中に小さなコインを見つけた。そこには100と書いてあったから、私はこれは昔の硬貨なのではないかと思ったが、その下にある6つ並んだハートのマークを見て「おもちゃのメダルじゃねーか」と内心ツッこんだ。表面は酷く汚れており、錆と泥が表面にこびりついていた。それがコインではなくて、メダルであると分かれば、今度はそのメダルがなんのメダルなのか? そしてなぜそこにあるのか? についての考察が始まる。表面の泥を落とすまでの間、私はそのメダルがゲームセンターのメダルゲームに使われるものではないかと思い、調べてみたが、500円硬貨と同じサイズのものは見当たらず、似通ったものも見つからなかった。何かの記念メダルかもしれないと思い「100」というのが何を表しているのかを考えてみたが、さっぱり分からなかった。考えて分からないのであれば、今度は情報を集める必要がある。歯ブラシでは落ちなかったから、少し硬めのブラシを使い表面の泥をとることにした。

裏面はメッキのようなものが剥がれてしまったから、結局何の絵が描かれていたのかが分からないままだが、「100」というものが何を意味しているのかは調べてみて分かった。100の下の6つ並んだハートのそのまた下にはアルファベットが並んでいた。「POKE…M……」途中途中、削れているからかアルファベットは崩れていたが、それがポケモンを表す言葉であることはすぐに分かった。そしてその「100」というのはポケモンの攻撃力、または体力を示しているのだろうと思った。体力がハートだとすると攻撃力になるのかもしれない。ここまで来て、私はそのメダルが何者であるかを知ることができた。だが、私は小さい頃ポケモンに興味がなかったから、それは私の物ではないと思った。

ハッピーセットか何かだろうとも考えたが、一番しっくりと来たのが、私のいとこがそのポケモンメダルを持っていて、それを遊んでいる拍子に川に落としてしまった。という解釈だった。山の近くの堀で見つけたピンク色のぷよぷよのスーパーボールは私が子供の頃に落としたものだった。だから、私たちはそうしておもちゃをどこかに無くしていくのかもしれないと思った。

私は子供の頃、奇妙な遊びにハマっていた。それは見開いた土地に物を投げるという遊びだった。視界が開けた場所に物を投げたとしても見つけることができる。投げたものは投げた方向に必ずあるはずだ。と思っていたから、その遊びをしていた。物を無くすことが嫌だった私は、何か確信のようなものが欲しかった。無くしたとしても当時のことを再現すればきっと見つかるだろうというものが欲しかった。レゴの小さなパーツが一つ消えていたり、そのせいで完成に辿りつかない遊戯がたまらなくストレスだった。だから、大切なものをどこかに投げるという行為は、無くなるという恐怖と、それを見つけられるはずだという確信の掛け合わせであり、それは私はわくわくさせるものだった。

ところで、ポケモンメダルだが休暇の時に恐らく家に来るだろうから、その時にでも聞いてみようと思う。そのメダルが100と書かれたポケモンメダルであることは分かったが、裏面に描かれているはずのポケモンのイラストが気になっていた。別になんでもいいが、それでもしも、いとこがそれを覚えていて、そのポケモンの名前がメダルと一致したとすれば、それは立派な思い出拾いだった。

 

 

流水腐らず

中国の故事成語にはいい言葉がある。例えば「流水腐らず」というものだ。「流水不腐、戸枢不蠹」(りゅうすいふふ、こすうふと)という言葉の一部で、流れる水は腐らないし、扉の軸は虫に食われない。という意味になっている。常に動き続ける者は決して腐ることがないという真理を表しているのだが、この言葉を見たときに「その通りだ」と感じた。行動し続ける人間というのは実用書でも説かれているし、水のような自然であっても同じことが言える。池に溜まった水は泥が沈澱した汚く、黒く沈んだ印象があるが、川の水はどこも絶えず入れ替わっているものであるから綺麗でいて当然だ。「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という徒然草の一節のように、川、水というのは何か特別な印象を受ける。人はそんな真理を日常にして、全く別のことに気を取られながら生きている。私はそんな、背中の痒みに届かないというような状況が割と好きでいたりする。

人間というのは水と同様腐る兆しがあるものであるから、それを防ぐために流れを起こす必要がある。川は上流から下流へ流れるという法則に従い、その流れを引き延ばして、絶えず入れ替わりながら流れを作り出している。ただ、流れが起きない場所にぶつかると、そこで水は滞り、細い流れを見つけるようにして、再度流動し始める。見つけられなかった水は災難にも、腐った窪みで滞り続けなければならない。

 


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