第六十回 個人的な今週のエッセイ R7.06/01-R7.06/08

ブログ活動

 

 

お品書き

 

今週の本

今週は「三体 Ⅲ(上)」を読んだ。Ⅱの終わりで三体文明を抑止に成功した地球はⅢになると、三体文明の科学力を借りることで大幅に科学技術が向上することになる。そしてある時、事件が起きることで、地球は再び窮地に立たされることになるのだ。

三体で語られる「暗黒森林仮説」は人間関係にも当てはめることができる。
そもそも「暗黒森林仮説」とは何かというと、
フェルミのパラドックスという、「なぜこんなに宇宙は広いのに宇宙人との接触がないのか」という問いに対する答えのひとつとして知られている。
簡単に言うと、『宇宙に自分たちの居場所を伝えてはいけない』というものだ。「暗黒森林仮説」というのはその名の通り、宇宙を暗い森林に置き換えたものとして考えられている。私たちが宇宙に向かって自分たちの居場所を伝えるということはリスクがある。暗い森で明かりが灯れば、そこに何かがいるということが分かるだろう。だが、多くの文明はそれを攻撃することはしない。なぜなら、自分たちもより高度な文明に攻撃される可能性があるからだ。攻撃することにより、自分の居場所を伝えるということになるため安易な攻撃はできない。攻撃する文明は自分たちに自信を持っている文明もしくはバカな文明くらいしかないだろう。
ではなぜ、文明は攻撃されてしまうのか。それは生命が指数関数的に増えることが関係している。生物は繁殖によって簡単に増えることができるが、宇宙の資源は限られている。そのため生物がある一定を超えると、資源が枯渇してしまう。資源が有限であれば文明は自分たちの文明を最優先に考えるだろう。そうなると、新しくできた文明は脅威となってしまう。例え赤ちゃんのような文明であったとしても、文明との接触があった場合、その文明の科学技術は特異点に達したように増進する可能性がある。宇宙が誕生して100億年以上経っているなかで、まばらきにも満たない一瞬のうちに地球は科学技術が増進している。明かりが灯ったばかりとはいえ、あっという間に大人になり、自分たちの文明を脅かす存在になるかもしれない。
『宇宙には本当は文明がたくさんあるけど、攻撃されないように隠れている』というのが、「暗黒森林仮説」になる。

そして、これは人間関係にも当てはまる。お互いを知らない状態でどれだけ自分のことを相手に開示するのかというものに近いのかもしれない。
自分のことを相手に伝えなければ、危険な人物だと思われる可能性がある。コミュニケーションとは自分がいかに安全であるかを相手に伝えるようなものなのだ。私たちを評価している人たちが超文明に近いのかもしれない。攻撃することはできるけれども、様子を見ている。自分たちの脅威になると判断されればすぐに首を刎ねられ、組織から追い出されることになる。

だからこそ、私はコミュニケーションは大切なものだと思っている。頭のいい人間というのは、これがしっかりとできていて、自分の評価を守ることに成功している人だと思っている。勉強ができるとか、仕事ができるとか、確かに重要かもしれないが、それは二の次になってしまう。嫌われる人間というのはリスクがある。いい人になるというのは最も合理的な選択なのかもしれない。

 

 

めんつゆで生姜焼き

豚肉にめんつゆ、酒、みりん、砂糖、生姜。これを入れることでいい感じの生姜焼きが完成する。
今までめんつゆではなくて、醤油を使っていた。検索サイトで『生姜焼き レシピ』と入力し、上から順番に作っていく、ほとんどが醤油だったため、私は醤油で生姜焼きを作っていたのだが、めんつゆを使う生姜焼きを見つけて作ってみることにした。結果はかなりいい感じだった。なんといっても、2日目の味がかなり落ち着いている。私はそのことに驚いた。醤油では味わえない優しさのようなものが感じられたのだ。生姜の辛味と醤油のしょっぱさの中間というか、中和されている感じだった。私は優しい味の料理が好きなので、好みだった。

何か料理を作る時、私はレシピを調べて作ることにしている。私は分量をしっかりと守りたい性格というのもあるが、違うレシピを作ることで、いつか自分好みの味が見つかるかもしれないと考えているからだ。私がよく作る料理で唐揚げがある。唐揚げにはにんにくと生姜を入れるものだと思っていたが、案外にんにくは必要ないと思う時もあった。肉を小さく切れば、揚げる時間を短くし、肉を柔らかくできる。唐揚げが食べたいといっても、どんな唐揚げを食べたいのかということが重要になってくる。自分の気分によって、料理を作り変えることができれば、最高に自由に感じた。

 

 

無駄が無駄を生む

2週間ほど前から、毎日投稿をすることを心がけている。昨日の投稿で思い出したことがあったのでそれを書いていく。
私が所属していた組織では年度末の経費が余ると、とりあえず紙を買うということをしていた。そのため、倉庫には紙が大量にあったことを覚えている。デジタル化している中で紙を買い、紙があるのに紙を買うから、数年前の紙が天井まで積み上がっているという状態になる。私はそれを知り、とても悲しい気持ちになったことを覚えている。
確かに、経費を減らされないためにギリギリまで金を使うというのは、ナイスアイデアだと思うのだが、そのためにする無駄な買い物というのがどうしても噛み合っていない。違う部署で同じようなことが行われていたとして、全国で同じようなことが行われているとしたらと考えるだけで吐き気がした。言い換えるならばポイントを貯めるために買い物をしているということに近いのかもしれない。

その経費というのも、結局は国民の税金からくるものだから。私はその仕組みが気に食わなかった。必要なもの以外で家がゴミ屋敷になっている人だったり、物が管理できていないから同じものをいくつも買ったり、食べ物を買ったことを忘れていてカビが生えていたり、それが気持ち悪い。

金がないのであれば、自分が何に金を使っているのかを記録して、無駄なことに金を使わないように気をつけることが最善であると思う。時間がないのであれば、自分が何に時間を使っているのかを知ることが大切である。〇〇がないと文句を言っている人は、必ず見落としているものがある。

スタージョンの法則というものがあり、世の中の9割のものは無駄という考え方がある。全くその通りだと思う。

 

 

店員は神様

休日になると適当に外出をする。適当なカフェに入り、適当な物を頼む。メニューを見て、アイスコーヒーでも飲もうかなと思った。カウンターにいた店員は研修中と書かれたプレートがつけられている。その時だった。私は唐突に感謝を感じた。店員は私の注文を待っている。何かしてもらったわけではなく、ただそこにいるだけだ。
そして、ふと思った。この人たちがいなければ私は休日を送ることができない。当たり前のことだったのに、今まで気がつくことができなかった。カフェに行き、図書館に行き、コンビニに行き、飲食店に行き、当たり前のように“店員”が存在している。表情を変えずにその店の顔として、その店のパーツとして、丁寧な対応を繰り返している。

店員は自分の生活を守るため、何か目的があって店員をしているのだろう。私も目的があってカフェに来たわけだから。分かる。なんだか、私の生活が守られているような感じがした。お客様は神様だとよく聞くが、私は店員こそが神様だと思った。

私は初めて、店員が人間であることに気づいた。

 

 


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