第八十五回 個人的な今週のエッセイ R7.11/23-R7.11/30

ブログ活動

 

 

お品書き

 

「こちらあみ子」

今週読んだ本で、最も印象に残ったのは今村夏子さんの「こちらあみ子」という作品だ。あらすじは、純粋無垢な少女がその純粋さゆえに、周りの人たちを傷つけてしまうというもので、人間の美しさと気持ち悪さが絶妙なバランスで描かれている。
私がこの作家を知ったのは芥川賞受賞作品を読んでいるときに「むらさきスカートの女」という作品を手に取ったことがきっかけだった。この人の作風はとても奇妙で私の好きな作家の村田沙耶香さんと似ており、物語の中に引き込まれていくような魅力があった。また同作家の「星の子」という作品はカルト宗教という話題に触れながらもとてもハートフルな内容となっており、私のお気に入りの本となっている。

 

「この人は多分、発達障害だろう」と考えると、その人がどんな行動をしていても許してしまいたくなるのは私だけだろうか。明らかにおかしいとかではなく、少し変わっている、というような些細な違和感が段々と積み重なって膨らんでいく。そして、何かきっかけとなるようなおかしな行動を見た時に「発達障害かも」と考え始める。昔であれば「発達障害」という言葉すら社会に認知されていなかったはずだ。だから、おかしな人というのは「普通」を基準としたときにその「普通」に手が届かない人たちが異常であるとされてしまう。「発達障害」という病気や障害が社会に認知され始めてやっと「普通」というものが全員に対して当てはまらないものであることが理解され始める。

「こちらあみ子」この作品はとても考えさせられる内容だった。おかしい子供、の積み重なる気持ち悪さが「発達障害かも」となる時に初めて、それらの行動を全て許すことができる。しょうがないと思えてしまう。どうしてそう感じるのかが私は不思議でならなかった。
もしかしたら、人は言い訳を探しているのかもしれない。なんでもいいから、何か理由を引っ張り出して、疑問を解消したいのかもしれない。あの人もこの人も「発達障害」となったら、それはそれで人間が下を見ているようで嫌になるけれど、むしろそう考えた方が多様性に近い気もしてくる。

 

クノイチ?

女性版のSASUKEとして、クノイチという番組があった。

「この日まで特訓してきたんです」
画面にはアイドルが鍛錬している様子が映されている。汗を流し、先輩に指導されながら涙を流しながら、身体を鍛えている。彼女は本気だった。
アイドルでありながら、SASUKE(クノイチ)の予選に挑み、彼女のグループ全員が合格して本戦に挑むことになった。目指すは第1ステージクリアだ。
「さあ、始まりました。〇〇 〇〇、血の滲むような努力……果たして……」
始まりのホイッスルが鳴り、アイドルは走り出した。目の前にはシーソーのような板があり、それに渡って向こう岸に行かなければならない。落ちれば水だ。

「ドバーン……」
「え?」「え?」(他アイドル)
水に落ちたアイドルは悔し涙を浮かべて、水面を思い切り叩いた。彼女は怒っているように見えた。一年間の特訓が一瞬で文字通り水の泡となってしまったから。

その番組のそのアイドルの尺は地味に長かった。何やらSASUKEのための特訓風景が流れ、同じグループの女の子たちと励まし合っていた。そのアイドルは最も本気で、遊びで出ている出場者たちとは雰囲気がまるで違かった。だからこそ、私はそのアイドルが水に落ちた時に思わずふいてしまった。番組がアイドルを煽っているような尺の取り方に笑ってしまった。そのアイドルが第一関門で水飛沫をあげ、同じグループの女の子たちがシーソーを次々突破していく様子にも笑ってしまった。水に落ちた後に同グループの仲間を応援している姿を見た時は胸が痛かったが、なんというかその番組は悪意があった。水曜日のダウンタウンでミスターSASUKEこと山田勝己に密着したときに特訓風景を撮影、そして本戦、第一関門で彼が水飛沫を上げる。仲間が「え?」「え?」と、笑っているのか、戸惑っているのか分からない反応をする。それと全く同じだった。まるで完璧なオマージュのようだった。

その後ミスターSASUKEこと山田勝己の弟子なるものが挑戦し、一人は第一関門で水飛沫を上げた。これもやはり完璧なオマージュのようで見応えがあった。

本気の女の子が挑んで、悔しさから泣いてしまうというのは、見ていて気持ちのいいものではなかった。だが、きっと女性版SASUKEのほとんどの出場者は売名行為で出演しており、本気でクリアを目指すさっきのアイドルのような人は少ないように見えた。席に座っている女性も「え?」と困惑したようだったが、胸の内では「ざまあみろ」と言っているようだった。中高生の女の子たちはそういった怖さがある。男のように単純ではないから、見えない場所で勝負をしているようにも見えた。

総括して女性版SASUKEはつまらない番組だった。
つまらない番組だからこそ、第一関門のみをプールとし、他をスポンジにした。プールに落ちれば女性は濡れるから男性視聴者を集めることができる。それに、第一関門の難易度を上げることによって、挑戦者たちをふるいにかけているように見えた。これは番組の尺を短くするためだろうと思った。

 

片付け

食器棚は食器を入れるものであって書類を入れる場所ではなかった。以前から気になっていたものだから、いっそのこと片付けてやろうかと思った。私の祖母は片付けができない人でよく物をなくす。この前は花壇にカレー皿が置いてあり、それを言うと「魚を持って行こうとして忘れた」と言った。玄関には包丁が投げてあるときがある。畑で鋏や包丁をいくつもなくし、その度に祖父が「勘弁してけろ」と言うと祖母は「はいはい」と適当な返事をする。
祖母のテーブルに書類を置き、一番上の書類を順々に下に回し、確認していった。飲みかけの薬や写真が書類の間に挟まっている。書類は保険関係のものや農協からのものが多かった。写真を見ると、子供と若い祖父が写っていた。子供は両の手を上げて、笑っていた。一体、この子供は誰なのだろうと考えていると、それは私であることを思い出した。幼稚園や小学校の頃の私の写真はどれも笑っていて、何かよく分からないポーズをとっていた。写真を撮っている人物は誰なのかと考えたが、それは分かるはずがなかった。次の写真には女の子が写っていた。レジャーシートの上に座り食事をしているものだった。遠足か運動会か、私には分からない。女の子とその母親らしき女性が写っており、私はその女性と女の子が誰か分からなかった。母親らしき女性は私の母親とは違うし、私には妹がいるが、その女の子は妹とは似つかなかった。もしかしたら、その2枚の写真を撮った人物は同じ人物かもしれないと思った。祖母かもしれない。だとしたら、それは祖母の知る私の親戚かもしれない。だが、やはり私には知りようがなかった。

 

 

世界が違って見える瞬間

剪定というのはセンスなのだと、実際に自分で枝を切り落としていくときに感じた。長い枝を切ればいいわけではなくて、元気な枝は残すし、元気な枝であっても内側に伸びているものは切らなければならない。また、枝も長く残しながら切るのか、それとも根本から切るのかという違いもあった。私は混乱した。必要な枝もそうでない枝も私には同じにしか見えなかったからだ。

車を街の中心部へ走らせている途中、今まで気にも止めなかった木に注意が向いた。一直線に10本以上並んだ木は整備をしていないにも関わらず、どれも同じ形をしている。私はその形が美しいように思えた。きっとそれが、その形こそが自然体で、私はそれを目指すべきのように思えた。
私が今まで通り過ぎていた木に注意が向いたのは剪定をしたことがきっかけだと思った。田んぼの草を刈った時も、整備されていない他の田んぼを汚いと感じたし、整備された田んぼは綺麗だと感じた。通り過ぎていたどうでもいい風景に色がついたような、不思議な感覚があった。

これは本を読んでいる時にもある。映画を見た後にもある。少し人に優しくしようとか、自分が持っている聴覚や視覚を大切にしようとか。
一旦通り過ぎたものをもう一度見直したりしないけれど、何気ない日常が特別なものになる、きっかけは確かにあると感じた。

 

 

大腿に怪我

「木が柚子の木にかかっていて影になっているから切ってくれ」と祖父に頼まれた。私は長い棒の先にノコギリがついた道具を受け取る。長さ2mほどの棒は伸縮することができ、それを最大に伸ばした。だが枝には届かず、さらに腕を伸ばしたところでやっと、棒の先についたノコギリが枝に触れた。私は棒を上下に動かし始め枝にノコギリの刃を当てた。
5分経ってもその枝が落ちる気配はなく、切っている感覚もなかった。だが、木の枝は雪のように木屑を降らせていた。それは紛れもなく切れている証拠だった。棒を上下に動かしているうちに段々と腕が疲れ、片腕ずつ代えて作業を行なった。10分経った頃、私は自分がノコギリの刃を当てている場所が先ほどと違うことに気がついた。きっと、枝には何本もの線が入っていて表面を引っ掻いた程度にしか切れていないのだと思った。私は脚立を持ってきていたことを思い出した。少しでも高いところに上がれば正確な位置を切れると思った。枝の下に脚立を設置し、それでは枝が落ちてきた時に危ないだろうから、少し外した場所に脚立を設置し直した。脚立に登ると、今度は座った状態で腕を上下に動かすことができた。かなり楽になった。そして、そのまま続け、刃が枝の半分ほど進んだところで、枝がメキッメキッと鳴る。私は、脚立から降り、枝の下に気をつけながら、枝が落ちる瞬間まで腕を伸ばして棒を上下に動かしていた。

ノコギリが枝の切断部に挟まってしまった。私はノコギリの刃が折れることに注意し、下に体重をかけた。バキッ、バキバキバキと大きな音が鳴った時もノコギリは挟まったままで、私は棒を離さなかった。すると、枝が弾けるような音と共に幹と分裂した。棒は私の大腿を打ち、枝の重みが直に足に伝わってきた。衝撃が大腿を伝い、足裏に逃げていった。枝が落ちた後、私は大腿が何やらヒリヒリとしていることに気がついた。ズボンを下げると、膝の少し上が赤くなり、大腿の中部には弧を描くように赤い線があった。ノコギリが付いた棒は筒のように空洞だったから、それが当たったのかもしれない。皮膚が裂けて、赤い層がのぞいていた。

 

 


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