第四十八回 個人的な今週のエッセイ R7.03/09-R7.03/16

ブログ活動

 

 

お品書き

 

「ハイパーハードボイルドグルメリポート」

本が好きな叔父に「なんか本かして」と抽象的なことを言った。蔵書はかなりのもので、本棚から溢れた本は、机の上に積み上がっている。ちょっと待てといい、すぐさま取り出したのは、この本だった。

自分の命を守るために親に銃口を向けた子供がいた。その間にあるのは、家族とか仲間とかではなく、銃を撃つ側、撃たれる側の単純な力関係だ。子供は自分の命を守るため、躊躇いながらも引き金を引く。そんな子供たちが少年兵としての人生を始める。
少年たちはコカインを与えられ、銃を持たされる。政府軍と反乱軍の戦争、その末端は子供たちが銃を向け合う地獄があった。それぞれは仮装をする。ハロウィンのように仮面を被り、ウエディングドレスに身を包む、自分ではない、誰かを演じ、敵を殺す。そして、敵を食らう。

そんな子供時代を過ごし、大人になった彼らが一般の生活に馴染むことはできなかった。生きるために両親を殺した彼らは、生きるために盗みを犯し、金を稼ぐ。飯を食い、余った金でドラッグを吸う。

リベリアはこの世の地獄を詰め合わせたような国だそうだ。

生きるために働く。
その言葉が重く感じた。

私たちは裕福な国でくだらない問題に頭を抱えている。
そのどうしようもない不公平さに、嫌気がさした。

 

乾いたアスファルトの匂いが雨の中に沈んでいた。
もう、春かな。
控えめな雨の中で、鳥のさえずりが聞こえる。
私は春が好きだった。それは花が好きとかいうロマンチックな理由からではない。一番平凡で過ごしやすい季節だからだ。夏は暑い、冬は寒い、秋は風が寒い。私は寒いのが嫌いだ。

朝起きると、雨音がした。
今日も雨か、アスファルトは黒く湿っている。
晴れてほしいな。

 

たぬき

「もっと、強めに叩け」
祖父にそう言われ、たぬきの脳天に棒を振りおろす。バタンと地面に倒れるたぬきを見て、一度目に強めに叩いていればと思った。
祖父はいのししを獲るために罠を仕掛ける。その罠にたぬきがかかってしまった。罠はワイヤーとバネ、それをはめる短いパイプでできている。パイプに嵌められた薄い木の板を踏み抜くと、ワイヤーが勢いよく締まり、足首を締め付けるのだ。祖父は罠を作るのが上手かった。たぬきも自力で抜け出すことはできないだろう。

狩猟と聞いて思い浮かべるのは、野生動物の眉間に弾丸を撃ち込むというものだった。
『木々の間を駆け回る動物、人間の気配を感じ、死に物狂いで駆ける。やがて、物音は消え、息を休める。遠くを見ると、人間がこちらに何かを構えているのが見えた。バン。大きな音と共に、視界が傾いていく……。』

だが私の祖父は罠を使い、一発で仕留める。弾を何発も撃つ必要がないので安上がりで済ませることができ、それに一発で殺せば、余計に苦しませずに済む、それは祖父なりの優しさだと思った。殺さないことは優しさとは違う、命を奪うのに十分な理由があり、それをしなければならない状況で選択しなければならない。優しさには覚悟が必要なのだ。

罠を片付けている間、たぬきを見ていた。息をしているようだし、目は私と地面を往復しているようだった。ワイヤーで締め付けられた手首は、気が抜け落ち赤い線ができている。血が巡っていなかったせいか、手は元の二、三倍は膨らんでいるように見えた。
「たぬき、食べるの?」
殺して、その後食べるのか? そんなことを聞きたかった。食べるのなら、棒で叩くのではなくて、刃物を刺した方が早いと思ったからだ。
「たぬきは食べたことねえなあ、たぬき汁ってあるくらいだから、うまいのかなあ」
祖父は、木の根本に固定された罠を取り外している。
「美味しいのかね」
たぬきの手首を締めているワイヤーを取り外す直前、たぬきが意識を取り戻した。祖父に言われるまでもなく、棒を強めに振り下ろす。ポカンという軽い音と共にが棒がわずかに振動する。

罠を回収すると、倒れたたぬきをそのままにして、車に乗った。
手首は感染症にかかっているかもしれない、でも生きていればいいな。直接殺したわけではないが、顛末を見ていないことと、殺したことは同義だろうと思った。
自分勝手な願望を抱き、先ほどの行動を反芻する。
命は、軽いのかもしれない。ボールの芯を捉えるような軽い感覚は私の胸を遠くへと飛ばしていた。

 

 

図書館

3月に発売されたばかりの村田沙耶香さんの小説は、早くも図書館に並んでいた。どうやら、私は図書館というものを侮っていたようだ。
(早速借りて、これが書き終わったら読み始めようと思っている。)

パソコンで検索をし、本が置いてある場所を印字してくれる。品揃えのいい図書館は、読みたい本がすぐに見つかってストレスを感じない。本屋には置いていない昔の本などを図書館で無料で読むことができるのだからかなりお得だ。新書が置いてあることにも驚いた。脳科学であったり、進化心理学であったり、数年前に発売された新書が並んでいるのを見ると、本屋が心配になってしまう。
勉強をしたい人がお金を払わなければ学べないというのは、少し違うとも思う。知識は全員に平等に与えられるべきだと思うから。

図書館内を歩いていると、過去の芥川賞や、本屋大賞など、受賞作品がまとめられているファイルを見つけた。私はネットで評価が高い本であったり、好きなジャンルを調べてから読むのだが、そのファイルを順番に読んでいくととうのも面白そうだと感じた。

 

 

サウナ

もうだめ。と、まだいける。その連続の中で意識が揺れ、やがてサウナを飛び出す。外気がひやっと冷たい。桶に水を汲み頭から被ると、水風呂へ入る。サウナに入っていたおかげで身体に膜ができ、冷たさが中和されている。
サウナの高温状態で思考停止し、水風呂の低温状態で再度、思考停止する。
強制的に脳みそを疲れされることができるので、サウナはストレス改善にもなると、何かの本で読んだ。

もうだめ。と、まだいける。水風呂の出るタイミングはそれぞれだと思うが、私は吐く息が冷たくなった時としている。人にとっては30秒とか、だが、私は極限を感じたかった。急に視界がクリアになり、立ちくらみと似たような感覚を感じる、目の前が暗くなり、やっと水風呂から出る。

近くに置いてある椅子に腰掛けると、瞼を閉じ、落ちていく。

私は外気浴の時間が好きだ。軽い瞑想状態になり身体から魂が抜けるような感覚。全身の毛が立ち上がり、ぱちぱちと弾けていく、椅子に座っているのに背もたれが地面と平行になる程深く沈んでいく。重力が消えてしまったように。
しばらくすると、身体に魂が引っ張られる。意識がはっきりとし、身体の重みを感じる。

少し水を飲み、サウナへと向かう。

 

 

現代アート

現代アートの作品展を見た時に感じたのは、見ている人たちが意味を求めているということだった。それを作った人はどんな思いを持っていたのか。「分からない」と、こぼしていた客の言葉を聞き、思った。
逆ではないのかと。

アニメが大衆に流れ出したのは、「鬼滅の刃」が放送された令和の初めの頃だと思う。それまで、アニメというのはどこか遠いものだった。正直、「鬼滅の刃」あそこまで流行った理由が分からない。それは、私がそれなりにアニメを見ていて、薄く感じてしまったからた。

いい作品だから、アニメを見る。
それが本来の順番だと思う。
美味しいものだから、行列ができる。
いい商品だから、売れる。

だが、そうではない。みんながアニメを見ているから、その作品を見て。行列ができているから、並び、売れているから、買うのだ。

アニメを評価する一部の人間が影響を持っていて、それに釣られて大衆が動いていく。みんなやっているからやっている。

現代アートを否定するわけではない。私も好きなアーティストに出会うことができたのは事実だから。
だが、思うところもある。
みんなが評価しているから、自分も理解したいと思う。というのがなんだか違うように感じた。
核があって、外側ができ、その外側を私たちが見て、評価する。ではなくて、外側を見て、大部分が思う核を思い浮かべる。

世界から中身が消えていくような感覚があるのは私だけだろうか。
核に触れることができるのは、ごく一部分の人間だけで、他の人は外側に触れて、分かった気になっている。外側にしか興味がない人が多いから、核を探す必要がなくなってくる。

美しいとされていることが正義であるとされていく現代。
私はドロドロの核を探している。生きている人間が抱いている生物としての核、変えることができない。隠すことしかできない核。
人間の美しさが詰まった核。

仮面を被れば、幸福になれる。だけど、そうしたくない。
そんな自我に核がある。

 

 


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