枝を切ると気持ちがいい。

ガタガタとした道を登ると少し高くなった場所があり、そこにはプラムの木がいくつも植えられている。祖父が言うには、「上に伸びた枝・重なった枝・細くツンツンとした枝」を切ってくれ、とのことだった。プラムは桃に似ていて、桃と梅の中間あたりの大きさをしている。とても甘く、特に熟れたものが好きだった。プラムは高い場所から落とすと傷になってしまうため、脚立に登ってひとつずつ採らなければならない。高い場所のプラムを採るのは大変だから、枝の剪定をして、横に広がるように形を整えていく必要があった。
祖父の説明は恐ろしいほど分からなかった。
「その、上に伸びた木の股になっているところを切ってくれ」そう言われ、登った木の上で体を捩りながら「これ?」と聞くと、祖父は「そっち」という、私は違う枝を探す。似たような枝が多く、どれも同じに見えるから、何度も「これ?」と確認する。ようやく見つけ、今度はノコギリの刃を木の股の先に当てると、「そこじゃなくて、真ん中」と言われる。私は理屈的な人間だから、理屈的な説明が好きだった。例えば、何センチとか、右手で持っている枝とか、そう言ってもらった方が分かりやすかった。そして、もっと言えば、剪定の意味であったりやり方を知りたかった。果物の木によって剪定のやり方があったり、断面によって枝の方向が決まっていたり、きっとそんなこともあるだろうと思っていた。だが、しばらくは、「これ?」「そう」「これ?」「違う」というのを繰り返していた。祖父は「そことそこの木を切ってくれ、じいちゃん、ちょっと出るから」と用事を思い出したように坂を下っていき、私は取り残されてしまった。
そこのそこの木と言われた私は、きっとこの木だろうと、枝があちこちに伸びた大きな木に脚立をかけた。上に伸びている枝を根元で切るのか、中間で切るのかの違いが私には難しく、また、重なった枝を切る時に何を優先すればいいのかも難しかった。私が祖父に「これは切っていいの?」と聞いた枝は上を向いていたが、「それはいいや」と言うから、余計に私は混乱していた。何もしなくては終わらないので、試しに一番太く、明らかに上に伸びた枝にノコギリの刃を当てた。
中間でその枝を落とし、その後根元まで切り直した。ツンツンとした細い枝を何も考えずに切り、邪魔だと思った枝も落とした。そして私は気づいた。剪定というのはセンスが大切なのだと。
私はセンスという言葉が好きだった。理屈さを捨てて自分の感覚に委ねることができる。結局、祖父も適当に切って、それが何年も積み重なっていくうちに『なんとなく』分かってきたのだろうと思った。私は『どうせ、枝は生えてくるし、ごちゃごちゃしていなければいい』と考え、思い切って枝を落としていった。太い枝を落とし、内側に向いた枝を落とした。迷ったら全て落としていった。脚立から降り、遠くから確認してから、見栄えが悪いものを落とした。私は気持ちが良かった。不要なものをを捨てていくのと同様にその合理的な作業は私を安心させるものだった。
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