第七十九回 個人的な今週のエッセイ R7.10/12-R7.10/19

お品書き
開拓
鬱陶しかった竹をノコギリで切り、川に落ちたそれを祖父に引き上げてもらい、最後に山へ捨てに行った。隠れていた川が日に照らされ、汚れた水が透明なものになった。砂が少しずつ流れていき新たな川が出来上がる。私はその様子を見て満足していた。竹を切って運ぶという面倒な、そして別にやらなくてもいい作業をした甲斐があったと思った。
そして気づいた、手付かずになった自然は汚いが、人間が微量に手を加えた自然は美しいと。田舎道を覆う草に恐怖を覚え、いつか飲み込まれてしまうのではという不安感を感じる。だが、そういったものがきちんと手入れされ、自然を尊重した人間の居住区が出来上がっていくことを夢見た。
自然を開拓し、灰色の世界を作るのはそれはそれでいいのかもしれない。少なくとも私は小さな川に綺麗な水を流したいだけだ。
カフェ
日常は衝動的、習慣的であると感じることが多い。予定が終わり家に帰ろうと思っていたのだがカフェでコーヒーを飲みたいと思った。私はそれを実現するためにカフェの方向へ車を走らせ、読み物を持っていなかったから途中で本屋に寄ろうと思った。だがその本屋のすぐ横にはカフェがあり、そのカフェでコーヒーを飲んだ方が合理的なのは間違いない。しかし私はそのカフェではなくて別のカフェに行きたかった。結局、本屋へは寄らずそのままカフェへと向かった。何をして時間を過ごそうかと考え、たまには、ぼーっとしていようと思った。
カフェでコーヒーを頼み席へつく。店員を観察したり、店内にどんな風貌の人がいるのかを観察していた。照明がいい感じの色で天井を見上げながら、カフェとは雰囲気に浸るものだと感じ、そういえば私はそこまでコーヒーが好きではないと思った。居酒屋で酒を寿司屋で温かいお茶を飲むように私はカフェでアイスコーヒーを頼むことが決まっていた。そのときはちょうど肌寒かったから私はホットを頼んだのだが、ホットを頼むのも3年やそこらぶりだった。
店員の動きや声、髪質や肌、接客している様子から店員の年齢を予想したり、店内にいる他の客で大体どこのカフェにもいる3人組の主婦を見て安心したり、再度天井の照明を見たりしていた。
くだらないことを思っているとき、そういえばコーヒーは温度変化で味が変わるという話を思い出した。私は2〜3分ごとに一口ずつ飲んでいき、その変化を感じようと思った。よく分からないがコーヒーは冷めるにつれて酸味が増していくような気がした。
もしかすると、側から見て私は自殺でもするのではないかという暗い雰囲気を漂わせていたのかもしれない。だが、私にそんな気はなく、ただカフェの雰囲気に浸っているだけだった。もし私の中にそのような雰囲気を感じたのならば微量のそういったものを出してしまているのかもしれない。そしてむしろ私はそのような暗い雰囲気も悪くないと感じている。
子の教育
私は社会に出るまで片親というものがよく分からなかったし、親の仲が悪いというのも小説や実際に見聞きして知ることとなった。というのも私は両親の喧嘩を見たことがなく、まるで子供に喧嘩を見せないという暗黙のルールに従っているようだったからだ。仲が悪くて喧嘩をしないというわけではなく、談笑している日常が私にとっての普通だった。だから、私の普通は恵まれたものだったということを後で知った。
子供というのは作ろうと思っていなくても作れてしまう。それはアルコール依存症が酒を飲むように、糖質中毒者がチョコレートを食べるように本能的なものであり、人の無意識に縛られた人間の行動だと私は思っている。だから子供は作ろうと思っていなくてもできてしまう。本能に従った行動をした結果子供が生まれ、生まれたから子供を愛すという。少し矛盾した順序に感じる。子供が欲しくて、その行動をして、そして無事に誕生し、愛するというのが、私の中の普通だからだ。
親の仲が悪ければ自分はいらない子供なのだと、もしかしたら子供が感じるのかもしれない。自分がいるから、親は離れることができず、自分のせいで親が縛られているのでは? と感じる子供もいるのかもしれない。だから、親は仲がいい様子を子供に見せる必要があるのかもしれない。それが一番子供の教育に影響を及ぼすのかもしれないと思った。
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