第三十一回 個人的な今週のエッセイ R6.11/10-11/17

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お品書き

今週の映画『007 カジノ・ロワイヤル』の見どころ

『007』シリーズは、昔から興味があって、いつか観ようと思っていた。だが、俳優が変わったり、作品自体が多いので、あまり観る気にはなれなかった。
そこで私は、「ダニエル・クレイグ」のジェームズ・ボンドだけはみて観ようと思った。
とりあえず、『カジノ・ロワイヤル』を観てみたのだが、あるシーンが異常なほど面白かったのでそのシーンを紹介していこうと思う。

ジェームズは凄腕の諜報員なのだが、ポーカーで大勝ちしたことにより、その金を必要としていた、テロ組織に関わりのある男に拉致されてしまう。
大金を入れた口座の番号と暗証番号を聞くため、ジェームズは、拷問を受けることになる。

そして、ダニエル・クレイグがマッツ・ミケルセンに拷問を受けるという状況へと繋がる。
まず、椅子の底をナイフで切り抜かれ、穴が空いている椅子にジェームズは裸で縛り付けられる。
そして、その後、マッツが太いロープをその椅子の下へ振り子のようにして、当てる。
つまり、ダニエル・クレイグの玉をマッツ・ミケルセンが太いロープで刺激するという拷問が始まるのだ。
その時のセリフでかなり笑ってしまった。

番号を吐く気になったか?そんな言葉をジェームズに語りかける。

「下の、、あそこが、カユい、、、掻いてくれ」

マッツは立ち上がり、先ほどよりも勢いをつけて玉へ刺激を与える。

「ああああぁぁぁーー!!!」
「やめろ!!そこじゃない!!、、、もっと右だよ!右!」
「ああああぁぁぁーー!!、、そうだよ!そこだ!」

この映画の序盤、パルクールをしながら追いかけっこを行うシーンは、かなり面白かった。
クレーンに登ったり、ド派手なアクションには、釘付けになった。
ポーカーでは、全員がオールインし、心理戦の面白さを改めて知ることができた。

「そこじゃない!!!」

だが、違う。

「そこだよ!そこ!!!」

私は、その伝説の拷問シーンを見るために『007』を観たのだと
そう思った。

 

栃木県の餃子

栃木県の餃子といえば、『みんみん』という名前を聞くと思うが、私的には、『正嗣』(まさし)の方が断然上なのではないかと思っていた。
弾力のある食感で、大きめの餃子は、包み込まれた餡と肉汁を外へ逃すまいと、たたずんでいるように見える。
店で食べたのは、しばらく前で、ほとんどは持ち帰りのみでの営業へと変わってしまった。
なぜ、『みんみん』という名前は聞くのに、『正嗣』の名前は聞かないのか?

どうやら、栃木県には、餃子の協会というものがあるらしい。
その協会に『正嗣』は加盟していないらしいのだ。

それで、納得がいった。
栃木県は、『みんみん』だけではないので、他にも色々な店があるのかもしれない。
店に出向かなくても、今はネットで冷凍餃子を買うことができるので、ぜひ、食べてみてほしい。

 

美味しい米

米の値段が、一袋16,000円で売られている。
全国的に、米の需要が高まり、供給が届かなかったことによって、一時的にだが、かなりの値上がりになった。
一番米が足りなくなるのは、収穫の時期になるのだが、私の祖父は農家をしているので、その米の値段について聞いてみた。

どうやら、私の家の米は、11,000円で売っているという。
ほとんどは、個人に売買をし、余ったものを米屋さんに持っていくらしいのだが、美味しいといってくれるから安くするという祖父の考え方に私は反対だった。
なぜなら、米の値段が16,000円から11,000円では、5,000円も差が出てしまう。
つまり、美味しいから買っているというのではなくて、安いから買ってくれているのではないかということだ。

お金に興味がないという祖父の気持ちで、かなり値段が下げられたが、本当に美味しいと思ってくれているのであれば、値段が高くても構わないのではないかと、私は思ってしまう。

安いから、美味しいという考えが、染み付いている。
量が多くて、安いものが、美味しいと錯覚している。

美味しいから買ってもらえているという祖父の考え方に対して、買っている側が、安いから美味しくなくてもいいという考え方だった時に、私はとてつもない悲しみを感じる。
好意が、違った形で伝わっているというのが気持ち悪い。

美味しい米であれば、20,000円であっても喜んでもらえるはずである。
値段を上げれば、偽物の好意を除外することができる。
私は、そう思う。

 

旧友

中学の友達というのは、友達なのかと考えることがある。
たまたま、同じ時期に同じ環境で過ごしていただけの、ただの他人であるはずなのに、なぜ、今さら、関わらなければならないのか。
そう思う一つの要因は、お互いが変化したことが大きい。

昔、面白いと思っていたことで、それを共有し笑っていたこともあったかもしれないが、それで笑えなくなった時というのは、やはり、他人なのだと私は思ってしまう。
むしろ、昔、話したことがなかった人と話してみたいと考えることの方が多い。

知っている人と、話した時にその差を感じるのではなくて、知らない人と新しい話題を話していた方が楽だから。

私は、友達が少ないのにも関わらず、話した時の差を感じた瞬間に、その人を求めていなかったのだと考えてしまう。
私が話しているのは、過去の自分との友達であって、今の自分との友達ではないと。

私のような考え方を持っていると、どうでもいい人間をたくさん作ってしまうので、気をつけたいところだが、どうでもいい人間と関わる時間というのを排除する利点以外が思いつかない。
私は、無駄なことが嫌いだという考え方が染み付いているからだ。

人生というのは、無駄なものであることに変わりはない。
だが、その人生を無駄なものにするのは自分であり、無駄なことを変えることはできない。
捉え方だからだ。

生きることは無駄なことだが、本当にそう考えているのなら、私は自分で死んでいると思う。
無駄ではないと思えることが一つでもあれば、生きる希望になるのだ。

 

世界がつまらない

世界がつまらないのは、それをつまらないものだと考えている私たちに問題があると、私は思う。
映画を観て、人によってはつまらないと思う人もいるかもしれないが、つまらないと感じる人ばかりではない。
中には、波が流れるほど、感動する人もいるかもしれないし、言葉にならない感情を解釈しようと、フロー状態に入る人もいるかもしれない。

そんな可能性を面白くない、つまらないで終わらせてしまうことはもったいないことだ。
面白いと考えている人がいるということは、それを自分でも味わうことができるということだ。

楽しむためにも勉強が必要であり、それをサボってしまうと、人生が、世界がつまらないまま、死んでいくことになってしまう。

これが私なりに考えた、人生を面白いものにするための秘訣だ。

こうやって、希望を見出していけば、終わるまで生きることができる。

 

公務員

私が公務員に向いていないと考える一つの理由は
何もしない人間が何かをしている人間と同様の待遇を受けているからである。
人の仕事を邪魔し、無駄口を聞いている人間が自分たちと同じ給料というのが気に食わなかった。
私が公務員になろうと思ったことに金銭は含まれていなかったが、やりがいを求めていると、他の人と比較する癖がついてしまう。

だからといって、その自分が嫌悪している人たちと同じ行動をしたいとは思わない、それは私のプライドであり、潔癖症のような強迫観念もあると思う。
その場にいては、私はおかしくなってしまいそうになった。
見ている、聞いているだけで不快さを感じる状況で、ストレスにより、頭がおかしくなりそうになった。

衝動的にハサミか何かで、その相手、もしくは自分を終わらせていたかもしれない。
機械のような人間であれば、私はそういった感情を抱かずに済んだのかもしれない。
決まったことを決まった時間にこなし、お互いが邪魔し合わない存在。

恐らく、私は結婚をすることができないのではと思う。
ただ、同じ空間でお互いの役割をこなし、お互いに干渉し合わない、機械のような人間であれば、共存できるかもしれないが。

 


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