第五十八回 個人的な今週のエッセイ R7.05/18-R7.05/25

ブログ活動

 

 

お品書き

 

今週の映画

今週は「ザ・ホエール」という映画を観た。素晴らしい映画だった。私が子供の時に大好きだった「ハムナプトラ」で主役を務めた、オコーネル役のブレンダン・フレイザーが、「ザ・ホエール」で主役を務めている。

彼は、かなり壮絶な映画人生を歩んできたらしい。「ハムナプトラ」で登場するエジプトの呪いにかかったように、トップスターから一転、大きく転落してしまう。妻と離婚し、子供3人には毎月高額な養育費を払う。セクハラの被害を受けていたことも告白し、鬱状態になっていた。金銭的にも、精神的にも追い込まれていた彼だったが、それでも諦めず、「ザ・ホエール」ではアカデミー賞主演男優賞を受賞することになる。

「ザ・ホエール」での主人公チャーリーは恋人の死を経験し、喪失感から、過食行動に走っていた。死期が迫っていた彼は、自分が8年前に捨てた娘に会うことを決め、トラウマと向き合うことを決意する。
チャーリーとブレンダンは、まさに同じような精神状態だったのではないかと思う。彼が作る表情の一つ一つには壊れてしまいそうな優しさが溢れていた。それは自分が傷つかないように相手に向ける優しさに近かったと思う。チャーリーは前向きな発言を多くしていた。だが、死期が迫っていても病院には行かず、救済など望んでいないと言っている。
人の心はそこまで強く出来ていない。生きていた方がいいとか、死ぬのはよくないことだというのは、幸せな人生を送ってきた人間が並べる綺麗事なのかもしれない。

チャーリーにとっての救済は間違いなく死だった。

だが、ブレンダンにとっては、それが復活となった。
どん底を知っている彼だからこそ、チャーリーを演じることができた。綺麗事で終わらせるのではなく、チャーリーという個人が救われ、ブレンダンも救われるという素晴らしい映画だった。

 

 

自分なりの楽しみ方

例えば誰かに誘われて遊園地にでも遊びに行くとする。遊園地というのはアトラクションに乗るものであるから、ジェットコースターや観覧車などの列に並び、乗り、そしてそれが終わるとまた次のアトラクションへと移動していくだろう。それは正しい遊園地の遊び方なのかもしれない。ほとんどの人がそうやって時間を過ごすものだから。疲れたら売店にでも行き、休憩をして、退園する時にはお土産コーナーにでも行くのだろう。しばらく遊園地には行っていなかったが、私は砂浜で想像していた。

潮干狩りに行こうと言われ、少しだけ興味が湧いた。私は潮干狩りに行ったことがなかった。私は貝が食べれらないから、特段獲りたいとも思わない。だが、初めては何事でも経験すべきだと私の内側で誰かが言う。予想はできた。鉤爪のようなもので砂浜をほじくり、貝を獲るのだろう。サンダルの隙間から海水が侵入し、細かな砂が肌を撫でるのだろう。予想はできても、初めては経験すべきだ。想像とは違ったものが見つかるかもしれない。私は潮干狩りに行くことにした。いや、行ってみようかと思った。

レジャーシートと文庫本を持ち、遠くから眺めていた。天気は曇り、少し肌寒い風が吹いている。砂浜がぬるかった。私は海に来て、海に触らないという〝あえて〟をしたかったのかもしれない。海で本を読んでみたかったのかもしれないし、ゴミが散乱した砂浜に幻滅していたのかもしれない。どこかの子供が落としたであろうスコップで砂の城でも作ろうかとも思った。片足のビーチサンダルや、薬莢までもが落ちており、砂浜は異物に溢れていた。太陽が出ていない砂浜にパラソルを立てサングラス越しにサーファーを眺めている人、砂浜に散乱したゴミの中から綺麗な貝殻を探そうとしている人、砂浜の端から端までを人間が埋め尽くしており、その誰もが海と真剣に向き合っているようにも見えた。砂浜に溶け込んでいた。私は砂浜に散乱するゴミと同様、異物と化していた。

レジャーシートを敷き、裸足になって砂浜を触る。表面はほんのりと温かいが、少し掘ると中はひんやりと冷たかった。読み途中の本を開き、文字を追っていく。遠くからは波の音がしている。私は本を閉じ、目を閉じた。遊園地に行きアトラクションに乗らずに帰る人はどれくらいいるのだろうか。海に行き何もせずに帰る人はどれくらいいるだろうか。だが、私は楽しんでいた。周りからどう見られようとも私は楽しんでいた。それでいいではないか。
私はもう一度本を開いた。遠くでは、波の音が不規則になっていた。

 

 

今日も私は疲れている

音楽を聴きながら、ランニングマシンの上を走っていた。時間も距離も設定せず、適当な速度で疲れるまで走ろうと思っていた。そうすれば夜にぐっすりと眠りに落ちることができるから。
頭が疲れていて、でもなかなか寝付けなくて、暗闇が延々と続くように感じる。朝になると光が鬱陶しい。私のタイミングで朝を迎えたいのに、朝日は平然と私を叩き起こす。明るければ寝られない。カーテンの隙間から漏れる光がそうやって私に小さな焦りを与える。今やっていることは本当に意味があるのだろうか。そんなことを自分に問うのは、自分に自信を持っていないからなのかもしれない。考えて動いているはずなのに、ふとした瞬間、私が弱くなっている時に襲いかかってくる。不安感から気が沈み、頭だけが疲れてしまう。

でも、身体さえ疲れていれば人は眠ることができる。人はしっかりと眠れていれば、なんとかなると思っている。寝たからといって何も解決していないかもしれない。だが、私たちにとって大切な脳を守ることができる。次考えればいいじゃないか。あとで考えよう。

余計なことを考えてしまう夜は、思い切って外に飛び出せばいいと思う。ランニングシューズを履いて、息が途切れるまで。

 

 

外国人助っ人教師

中学生の時だが、英語の時間になると、たまに顔を出す外国人教師がいた。英語の教師とは別にネイティブなことを教えてくれる先生だったと思う。私は英語が嫌いだったので、正直あまり覚えていないが、印象に残っていることがあるのでそれを書いていこうと思う。
外国人の教師は私によくいたずらをしていた。その内容は、私に気付かれないように消しゴムをとるというものだった。私が「あれ、どこだ」と、消しゴムを探していると、その教師は真っ白な歯を見せながら、私に消しゴムを返してくれる。何がきっかけで始まったのかは分からないが、私が気を抜くと机の上の消しゴムは彼にとられてしまっていた。身長が190cm以上ある黒い眼鏡をした教師だった。私はなんとか彼を打ち負かそうと思い、あることを考えた。

消しゴムを配置すると、それよりも小さな消しゴムを彼に見つからないようにして使った。机の上に置かれた消しゴムは囮であることを気付かれないためだ。準備は整った。私はいつも通りノートをとり、彼の襲撃に備えていた。
彼が私の消しゴムをとろうとするが、それは不可能だった。机に張り付いた消しゴムはどんなに大きな身体を持っていたとしても、すぐにとることはできない。ガタンと机が浮き、彼は日本語で「えっ?」と言った。
私はのりで消しゴムを机に貼り付けていたのだ。作戦は成功した。彼の襲撃は失敗に終わり、完敗だというばかりに彼は大きく笑っていた。
「やられたねぇ……」またもや彼は日本語で言うと、私にハイタッチを求めてきた。彼の大きな手のひらが迫ってくる。私は彼の図体に負けないように力一杯、ハイタッチをした。私は確かにその時、友情のようなものを感じた。

 

 

振動して、感動して

心の中がざわついて、人は誰かを傷つけたり、涙を流して感動したりする。行動の部分だけを切り取ると、犯罪者から、人を救う英雄まで振れ幅があるが、その心がざわつくというものは、全てに共通していることのように感じる。そう思った根拠として、振動についてが挙げられる。
人が行動する時というのは私の身体を構成する物質がすべて同じ方向を向いている時ではないかと感じるのだ。そして、その行動の前段階の感情の乱れであったり、激しい怒り、熱意、その振動のようなものは、物質が別々の方向に向いている状態ではないかと感じる。

何かのきっかけで、振動しそれが行動に変化する。
音楽を聴き、波長が私たちの振動と同調し、気分がスッキリする。
食べ物を食べて、振動が幸福に振れ、笑顔になる。

行動した後に何かしらの影響を受けて、振動が乱れる。
誰かを傷つけた後に、その人から傷つけられたりして、乱れる。
遊んでいる時に怪我をして、涙を流し、振動が乱れる。

気持ちが不安定になる時というのは、この乱れに余計な振動が混じっているのではないかと感じた。そんな時は音楽を聴いたり、運動をしたり、好きなものを食べたりすれば、波長が整うのではないか。

あくまで私の想像であるが、運動エネルギーと熱エネルギーについて調べた時に感情との共通点を感じた。私たちよりも小さな物質だって、宇宙だって、それに当てはまるのだから、人間にも当てはまるのではないだろうか。

 

 


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