第七十七回 個人的な今週のエッセイ R7.09/28-R7.10/05

お品書き
今週の映画
祖父たちと太陽光の下に生えた草を刈る仕事は明日で終わりそうだ。2週間、土日の休みもなかったのだが、雨になったら帰るし、作業よりも休憩をしている時間の方が長いのだから、別に構わないと私は思った。トラクターで大きく刈り、トラクターよりも小さい手押しの草刈機で刈り残した草を刈る。そしてさらに刈ることが難しい柱の根本などは手持ちの草刈機で刈っていく。私はそれをしていたのだが、端から順番に刈っていくと「まだあんなにあるのか」と、列になった太陽光パネルに目を瞑りたくなる。だが、後ろを見てみると先に続く列と同じくらい自分が草を刈っていたことが目に入る。目の前のことに集中していると気づくことができないが、案外簡単に先に進んでいるものだ。
この時期はオオスズメバチが餌探しに飛んでいて、春にはなかった脅威を背に感じている。先週は作業していたひとりが刺されていた。大事には至らなかったのだがそれがあってから私はスズメバチの飛ぶ、低い振動音が耳に入るとかなり警戒をしていた。だがそれよりも気になったのが太陽光の柱に巣食っている蜘蛛、恐らく女郎蜘蛛だろうが、それらが多く目に入ったことだ。黄色と黒の特徴的な模様が背中にあり体長は脚を含めて3cmほどはあると思った。できれば近づきたくないと思いながらそれを避けながら草を刈っていき邪魔であれば枝でどこかへ追いやってから草を刈ったりしていた。
だからだと思うが、私は何か映画を観ようと思ったときに「スパイダーマン」を観たいと思った。マグワイア版のスパイダーマンは家にD V Dがあったから観たことがある。だから観たことがない「アメイジング・スパイダーマン」を観ることにした。
スパイダーマンのストーリーについては特に何かを書くことはない。だが、スパイダーマンが蜘蛛の糸を張りながらビルの隙間を飛んでいるシーンはかなり迫力があった。一人称視点になるシーンを映画館で観れば迫力満点だったと思う。それは私が主観になる映画をあまり知らないからなのかもしれないが、
アマゾンのPrime videoでアニメ版の「エヴァンゲリオン」や「まごころを君に」が追加されていることに気づいた。アニメのエヴァは昔に観たことがあるのだが、もう一度観たいと思った。だから『後で観る』に追加した。
後で観る
『後で観る』の映画やアニメが100作品ほどになっているのは私だけではないはずである。観たい映画というのは気分で変わるものだから、1週間前『後で観る』に追加した作品を今観たいかと言われればよく分からないと答える。私は映画を観たい気分なときに一気に映画を検索するから時間は限られているのに3〜5本の映画を平気で『後で観る』に追加したりする。その中の1本を視聴し調子が良ければ2本目を視聴したりする。だが映画というのは同じ俳優を観たくなったり、同じ監督の映画を観たくなったりするものだから、寄り道をし、結局は『後で観る』に追加していた作品を後回しに物色を始めるのだ。その結果『後で観る』には取り残されたものたちが溜まっていくことになる。『後で観る』リストを見返したときに興味が再び湧くことがあればその衝動的なエネルギーで視聴を始めるかもしれないが、それが全てに働くとは限らない。差別系の映画を観た後は同じ差別系の映画を調べ、アクション系を観て面白いと思えば今度は続編を観始める。だから私の『後で観る』は一生なくならない。きっと他の人もそうだと思う。
『後で観る』の仲間に『後で読む』というものもある。私が今読んでいる本は先月の前半に買ったものなのだが、5冊買ったうちの3冊目を今読んでいる。このまま興味が続けばいいのだがそれが続かないと『後で読む』または『積読』に追加されてしまう。私の『後で読む』は20冊ほどあるような気がする。もしかしたらもう少しあるかもしれないのだが、それもやはり計画的に本を買わななかった私が悪いのだろう。そして今日も9月に買った5冊を読み終えていないのにもかかわらず新しい本を買ってしまった。「誰が勇者を殺した」というラノベで昔から気になっていた本だ。この本をいつ読み始めるのかは分からないが、こうやって買った本に限ってすぐに読み終えてしまう。もしかしたら今日中に読み終えてしまうかもしれない。
ここからは私の言い訳なのだが、その本を読みたい気分を過去に保存された感情と取ることもできる。その感情はいつかまた本を読み始めるときに蘇るような気がして、私には甘酸っぱい記憶などないのだが、そういった強烈な感情が再び自分の脳内に溢れ全身を駆け巡るような感覚がきっと訪れるような気がしてならない。だから『後で観る』『後で読む』というのは感情の保存とも言い換えると思う。思考の保存のような気もする。
もちろん、私はあえてやっている訳ではないのだからただの言い訳に過ぎないのだが。
「誰が勇者を殺した」を買った本屋でセルフレジを使った。レシートが完全に出る前に抜こうとしてしまったものだから、画面にはエラーが表示される。店員を呼びますといった文字が出ていたが、近くにいた店員を見るとそれが伝わっているとは思えなかった。レシートの出る穴のすぐ上には『無理に引っ張らないでください』と小さな注意書きがされていた。仕方なく、私はレシートを手でちぎり、こうしてカフェに来て文章を書いている。そのうち「誰がレジを壊した」となっているかもしれない。すぐ直るだろうが、申し訳ないという気持ちが一切わかなかった。
うまく立ち回ろう
先週「女子高生が男性に刺殺される」というニュースが流れた。今となってはありふれたもののひとつに過ぎないのかもしれない、外側だけをみれば「男が女子高生を刺した」とまとめられてしまうからだ。だが、そのニュースの内側は少し違っていた。男は犯行後に「誰でも良かった」と供述していた。そして、女の子の遺族や近所の人は女の子を「いい子だった」と話していた。つまり、誰でもいいから殺したかった男が、地域で必要とされていた女の子を刺殺したということになる。私はこれがパズルの最後のピースが綺麗にハマらないように気持ち悪く感じた。
死ぬべき人間は一人もいないと私は思っている。誰かの役に立っていようともいないとも、生きるかどうかを決めるのは本人であり、それは他の人には分からないことであるからだ。見えないものであるから第三者は判断しようがない。だから、その人が犯罪を犯したり、悪いことをすれば、必要のない人間だと認識される。それさえしなければ、死ぬべき人間には成りようがない。
犯罪者は別として、強い希死念慮を持った人間もいる。生きづらさにどうしようもない気持ちになり、命を投げてしまう危険を持った人たちだ。じゃあ、助けてあげよう。話を聞いてあげようと。言う人もいるが、希死念慮はそんなに簡単ではない。だから私は、生きたいという気持ち同様に死にたいという気持ちも尊重すべきであると考えている。
死にたいと思っている人も周りの人から必要とされていると思うのだが、死にたいのであれば一度そのような経験をすべきだと思ってしまう。きっと身体は生にしがみつこうと、反射的に生きる道を選ぼうとする。その命の強さを感じれば死にたいなどとは思わなくなるかもしれない。
パズルのピースがはまらないという話をしたが、それが綺麗にハマるとすれば私はこう考える。
誰でもいいから殺したいと考えている人間は、同じように適応できなかった人間を刺した方が都合がいい。なんとなく刺した、そしてたまたまその人はナイフを隠し持っていた。
できれば人は死なない方がいいと思うし、殺さない方がいいと思うのだが、起きることは起きるだろう。だから、せめてパズルのようにはまってくれれば見ていて気持ちがいい。
ネズミ人間
中国では「ネズミ人間」と呼ばれる若者が急増しているらしい。生活は昼夜逆転し、定職に就かず、1日のほとんどをベッドの上で過ごすといった若者である。エネルギーの消費を抑えることに特化した生活なのだろうか。
ネズミ人間の生活は生きていると同時に死んでいるように思えてならない。人生を無駄にしていると目に見えて分かる。きっと、楽に自殺できる薬があれば打ってしまうのだろう。
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