第六十六回 個人的な今週のエッセイ R7.07/13-R7.07/20

お品書き
乳製品にハマっています。
私は一時期、乳製品を食べる必要がないと思っていた。牛乳でお腹を壊す人が多いのは、日本人の身体に牛の乳が合わないからであるという話を聞いたことがあるからだ。というのも、牛乳を飲んでお腹を壊す日本人はかなり多いらしく、6割ほどだろうか。その話を聞いた時に思ったのが日本人には日本人なりの栄養の摂り方があるのではないかということだ。発酵食品を食べるのなら、漬物であったり、納豆を食べると言った感じで、自分に合った方法を見つけなければならないのだろう。
そんなわけで食べる必要がないと思っていたのだが、小学校の給食で出るようなカップのヨーグルトをスーパーで見つけ、懐かしく思い買ってみたところ、それから毎日のように食べている。週末に買い出しに行き1週間分のヨーグルトを物色する。どれを食べようかと、その生活が今日で1ヶ月経っていた。
元々、乳製品はあまり好きではなかった。なんというか身体に合わないというか、チーズや乳製品を食べた後の皮脂の分泌が嫌いだった。指先に残る生臭さであったり、それがいつまでも付き纏ってくるような不快感に耐えられなくなるのだ。その体質が治っているわけではないのだが今では、毎日食べている。スプーンでヨーグルトを掬うのが楽しいというか、口に入れた時の柔らかさとなめらかさであったりとか、なんというか好みが合っているのかもしれない。程よい甘さで合ったり。私はヨーグルトを食べる用のスプーンを欲しいと思っている。きっと、いいスプーンがあるに違いないと思っている。都内に行った時にでも探しにいこうかと思っている。
ヨーグルトと同時期にハマったものがベビーチーズだ。私はチーズは嫌いな方だった。理由は同じで臭いがいつまでも残っているような感覚があるからだ。だが、昨日もスーパーでベビーチーズを4本購入した。ブラックペッパーや明太子、私は明太子味にハマっている。ピリ辛が癖になるからだ。カマンベールとプレーンを買った。ピザのような加熱されたものは嫌いだが、固形のチーズは好きなのかもれない。今日もカフェに行き、チーズケーキでも食べようかなと考えている。噛まなくても、口の中でとろけていく、そんな食感が好きなのかもしれない。
謎の自信の育て方。
先週と先々週は気持ちが沈んでいたと思う。特にここに書くことではないので理由は伏せておくのだが、自分のせいであることは間違いないと思っているし、沈んでいるだけでは何の意味もなさないことも頭の中では分かっていた。そんな時、私は謎の自信に救われることがよくある。根拠のない自信、私はそれを愚かな感情だと思っている。ただポジティブなだけで現状の分析をしていない、根拠がないのだからまた同じ失敗をすると思ってしまうのだ。しかし、その無根拠な自信というのを完全に否定しているわけではなく、実際に私もそれに救われたことが何度もある。
自分ならやれると、自分ならできるといった、湧き上がるような感情と興奮は、冷静に分析をしたところで湧き上がってくるものではなく、沈んでいる時というのはさらに沈んでいくだろう。逆境に興奮する人といった感じだろうか、吹っ切れたとでもいうのかもしれない。大きなものを失い、それを追わなければならないという精神的な苦痛に苛まれていたのにも関わらず、一旦忘れ、そして永久に忘れていく。ふとした瞬間にスイッチが入るのだ。別人格が表面に出てくるように、先ほどまでのブルーな感情がかき消されていく。そして、その感情が起こった時に私は乗り越えられると確信するのだ。
私は謎の自信さえあれば、どんな局面でも覆すことができると思っている。その根拠はどこにあるのか? そんなものはどこにもなく、だが、実際に私は救われている。命一つさえあれば、どんな局面でも覆すことができると信じている。もしかしたら、信じきっていることが重要なのかもしれない。
ある小学生YouTuberが言ったように「死ぬこと以外、かすり傷」なのだと思う。本当に。
面白いことに、逆境を越えると、越えた分だけ、謎の自信の力が強まっていく、レベルアップしたい人間は、逆境に片足を踏み込んでいれば成長を感じられるかもしれない。リスクはもちろん承知の上でだ。
やりたいことがない人
本か、映画か、はたまた何かの動画かは分からないのだが、ずしんと重たい一撃を喰らった言葉がある。それは、「世の中にはやりたいことがある人の方が少ない。やりたいことがない人は、目の前のことに全力を尽くせ」という言葉だ。私はやりたいことがあるはずなのに、段々と自信を失っていくことが多い。それは本当にやりたいことなのか、どうかが分からなくなってしまうのだ。そんなブルーな時に私は意味のあることをして逃げている。誰かが必要としていることをして意味のあることをして時間を過ごしたという安心感を感じている。精神安定剤のようなものだ。
私は夢を持てと、子供の頃に言われて育ってきた。だから、やりたいことがあることが普通であり、やりたいことがないというのが普通でないと思っていた。しかし、そもそもが逆なのである。大人になった時にやりたいことがないことに気づくのだ。そして、適当なことをして時間を過ごしてしまう。「やりたいことがない人は目の前のことを全力でやる」というのは的を得ている気がした。全力でやっていれば見つかるかもしれないし、見つからなかったとしても、自分の力になっていくだろうから。
とりあえず私は、小説を書きたい。そのために本を読んで、こうして文章を書いている。自分を安心させるために文章を書いているだけかもしれないが、毎日続けていれば、いつか形になると信じている。いや、形にしなければいけない。やりたいことがあって、それを追っている人たちは辛いのではないかと思う。いつになるのかが分からない。ゴールのないマラソンを走っているようなものなのだから。
バーベキュー
3連休だから。余った休みを使って親孝行をしているのかもしれない。近くの食料品店には中年の女性と、白髪頭の夫婦がいた。カゴの一番上に見えたのはエビの冷凍で、それでバーベキューでもするのだろうと思った。それが普通なのだろうか、休みの日に親とパーティーのようなことをするというのが普通なのだろうか。私の両親がそんなふうにしているところを見たことがなかった。自分たちが楽しみ、それを両親に見せつけるような、見えない壁のようなものを感じた。大人なのだから、親孝行くらいはすべきだと思ってしまう。
そんな環境を見ていると、家族というのがただの他人の集まりのように見えてしまう。年齢が違うのだから話は合わず、お互いが我慢をしながら生活を送るような窮屈感を感じる。両親と祖父たちの関係が薄っぺらいと気付いた時に家族という言葉を考えていた。私が両親たちと同じ年齢になった時には、何か恩返しをするのだろうか。それとも、両親が知らんぷりをしていたように私も、似たようなことをするのだろうか。カエルの子はカエルだというが、私はそれを全力で否定したい気持ちと、祖父たちに代わって軽い復讐をするというような気持ちの交差が起きている。私は私のやりたいようにすべきなのだろうが、私にはそんなものはなかった。
祖父たちは普段、外食に行かないだろうから、普段食べなさそうなものを買って帰ることにした。ケンタッキーにでも寄ろうか、口に合うかは分からないのだが。
ゆうらいふをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。










