第七十三回 個人的な今週のエッセイ R7.08/31-R7.09/07

ブログ活動

 

 

お品書き

 

余韻の残る1週間

「復活した」そう思い、来週の稲刈りに向けての草刈りをしたのだが、ある程度草を刈ってから、やる気が萎んでいくような感じがあった。一時的とはいえ確かにあったモチベーションが完全に消え去り、だるく、強烈な眠気に襲われた。これはコロナの余韻だと思った。味覚は戻ったかもしれないが、頭痛が続いているし、咳が少し出ている。いつになったら、元に戻るのだろうかと思いつつも、元の状態が思い出せないという健康状態が続いていた。そして、今週は、酷くストレスが溜まっていた。心に余裕がある人間は些細なことで人に当たったりなどしないはずだから、今週の私は心に余裕がなかったのかもしれない。直接人を攻撃するということはしなくても、内に湧き上がる攻撃的な感情に驚いていた。私は毒舌の類で、だがわざわざ口出すことはないという人間だった。我慢をするというか、必要のないこと以外あまり口には出さない人間だった。だが、今週は『なぜ、こうなのか?』という疑問から始まり、気が使えない他人の無配慮さに嫌気がしたり、自分勝手な考えや行動をぶつけている人間を見て、イライラしていた。普段なら、そんな無駄なことに時間を使ったりはしないのだが、考えないと気が済まないという状態に陥っていた。

人を傷つけてはいけない。なぜなら……、という教育を幼稚園生や小学生で習うと思う。私は覚えていないし、納得することができなかったのだが。今では、はっきりと答えが出ている。それは「時間の無駄だから」となっている。私は合理的な性格をしているので、他人の愚痴は好きではなく、人を傷つけることも好きではない。嫌な気持ちになるからとかではなくて、そんなことをしている暇があったら、他にやることがあるだろうと前向きに考えるようにしているのだ。この思考法は私に合っているし、私のお気に入りでもある。他人にイライラすることがほとんどなくなるのだ。たまに目につくことがあっても、相手を許すような思考に切り替えて、そのことはすぐに忘れてしまうこともあった。
例えば、目の前から人が歩いてきて肩がぶつかり、相手は誤りもせずに手元の携帯から目を離さない。という状況があったとする。わざと思い切りぶつかり、携帯を落としてやろうと考えてもいい。なぜなら、相手はよそ見をしているからだ。相手が悪いと一方的に考えることもできるだろう。しかし、この場合は携帯で何か大切なやり取りをしているのかもしれないと思った方がいい。大切ならどこかで立ち止まって連絡をするはずで、ということは移動しながら、時間制限がある予定に追われているのかもしれないと考える。スーパーで野菜を見ている時にメールが届いていて、自分の母が事故に遭ったという報告があり、駐車場に向かいながら、その詳細を事細かく質問している途中だったかもしれないと考える。そうすると、相手を許すことができる。相手を見下しているのかもしれないが、そうやって不幸な人間を作り出さないと、相手に思いやりを持つことができなくなると私は考えている。

と、普段ならこう考える癖がついているのだが、頭痛が酷く、今週はイライラしていた。毒が頭の中で永遠に吐き出され、自分が嫌いになりそうになった。この毒はコロナの余韻ということにしておこうと思う。そうすれば、体調が回復した時、一緒に毒も消し去ってくれるだろうから。ということにしようと思った。

 

 

金ロー×ジブリ展

福島県立美術館で開催されている「金曜ロードショージブリ展」を見に行った。金曜ロードショーの歴史がその当時に流行していた文化と重ねられて展示されていた。昔、テレビで映画が放送され始めた時には金曜日だけではなくて、平日全てで映画が放送されていた頃もあったという。そして、ジブリが私たちの生活の中に段々と浸透していき国民的な人気を得ることができた。作品ごとのラフ画も展示されており、ジブリ好きにはたまらない体験をすることができた。

金ローとジブリの歴史の振り返りが終わると、今度はジブリの展示作品があり、中でも王蟲の展示品はかなりの迫力があった。体長10mほどの王蟲は目が赤や青に変化し、その周りに展示されていた原生植物や原生動物もかなりリアリティがあった。

お土産コーナーでは、紅の豚のトートバッグやもののけ姫のしおり、カオナシのストラップを買った。なぜジブリのキャラクターは可愛いのか、とデザインを見るたびに思う。私の子供時代を彩っていた作品はいつまでも古びない。

 

 

名前のつかない

異性を近くに意識すると胸が苦しくなったり、心拍数が上がることがある。これを一般的に「恋」というのだが、初めて「恋」を経験した人は、それが恋だとは思わなかったに違いない。胸が苦しくなるだろうから病気だと考える人もいただろうし、心拍数が上がるから運動と結びつけて考える人もいたかもしれない。
つまり、多くの人が経験したものが、誰かに名付けられて初めて、大衆の共通認識としてこの世に誕生するということになる。そして、新しい感情に名前をつける人を芸術家と呼ぶのだと聞いたことがある。

多くの人が経験をするから誰かに相談をしたり、多くの人が考えた結果、答えが目につくようになっている。だが、多くの人がいる以上、少数の人間もいる。少数の人間が感じている感情を多数の人間が感じているかどうかは分からず、仮に少数の人間が多く感じ、多数の人間はほとんど感じないとすれば、これは、「名前が付きづらい感情」になるのかもしれない。
どうして、生きているのかが分からない。かといって辛くもないし、楽しいこともそれなりに楽しむ、でもその生きている意味が分からず、それがずっと付き纏ってくる。死を考える人がどれだけいるのかが分からないし、私の感じている感情が過去に誰かが考えて答えを出しているのかも分からない。

私たちは探しているのだろうか。その自分だけの特別な感情を。

 

誘い

「なんで誘ってくれなかったの?」という言葉を久しぶりに聞いた。直接ではないのだが、笑いながら冗談半分で言うのではなくて、悲しみでもなくて、怒りのようなものが混ざっているように聞こえた。そして、私はそれに違和感を感じていた。「誘ってくれなかったの?」と言うということは誘われる予定があったということなのだろうか、しかし、そんな気配はなかった。「行きたかった」だったら、私にも共感することができる。「じゃあ、次行こうね」と誘いたくなる。だが、そもそも誘ってもらうことが前提で、そして相手を攻撃するような言動が気に入らなかった。

誘う人間と誘われる人間に分かれるのは当然で、私は誘われれば気分で行くかもしれないが、何があるのかが予想できることにはあまり気分が乗らない。私は一人が好きなのでほとんど誘うことはないのだが、目的が一緒であればお互いが邪魔にならないと判断して、誘うということもあるかもしれない。誘う、誘われるの重要度がそこまで高くないから、私はそこまでこだわっていない。だから、誘って欲しかった人間がそこまでムキになることが疑問になる。

誘われるということは嫌われていないということだし、誘って相手が応じるということはある程度優先的だということになる。誘われるにはそれに興味があるように立ち振るわなければならないし、ある程度の関係性も出来上がっていなければならない。でも、めんどくさい。なるべく誘われないために行動し、でも嫌われる行動を取らないという難しい距離感を保つ人もいるかもしれない。もしかしたら、承認欲求のようなものも関係しているのかもしれない。だが、それで誘われなかったといい、凹んでいるのはなんだか惨めに見えるし、可哀想だから誘うというのもなんだか、相手に失礼にも感じる。

私はなぜ、ここまで気になってしまうのか。誘うという選択がそもそも頭になかったから、外側から攻撃を受けているようにも感じる。自分が悪いと言われているように感じる。極端にいえば、5年以上会っていない同級生に「なんで、私をディズニーに誘わなかったのか」と急に言われるようなものに近い。なぜかって、誘うという選択が頭の中になかったからに決まっている。だが、それを直接相手に伝えてしまっては相手と喧嘩になるかもしれない。だから、適当に「また次行こうよ」となるべく明るく答える。そして、その言葉を言った時には、きっとその時は来ないだろうと思っているはずだった。

 


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