第六十四回 個人的な今週のエッセイ R7.06/29-R7.07/06

ブログ活動

 

 

お品書き

 

たまにサウナ

まったく、夏の暑さにはうんざりさせられる。じめじめとした空気が重く、それが肌に纏わりつくと今度はベタついた汗が皮膚へと張り付く。タオルや服の袖で汗を拭ったところで気休めにしかならない。一度吹き出した汗はなかなか止んではくれず、結局エアコンのスイッチを入れるしかない。どうせなら、さっぱりとした汗をかきたいものだ。そう考えながら、カーテン越しの日差しを眺めていると、しばらくサウナに行っていなかったことを思い出した。温泉にでも行こうか。携帯を手にし、近くの温泉を検索することにした。
人の恒常性とでもいうのだろうか。冒険をするよりも安全な見知った選択をしてしまう。それが人間の特性なのだから仕方がない。同じ飲食店に入り、同じ席に座ると同じメニューを頼む。それがお気に入りのメニューであり、それがある程度自分を満足させてくれる選択であるからと、ほとんど反射的に自動的な行動をしてしまう。仮に私も行ったことのない温泉に行こうと考えしばらく携帯を見ていたのだが、結局いつもの場所に行くことにした。時間はまだ早いから本屋にでも行って、カフェで何か食べてから行こう。ある程度計画を立てていると、心が躍るような気分になってくる。そして、そのカフェや本屋という場所が私が習慣的に足を運ぶ恒常的なもので、いわば安定剤のような役割になっていることを思った。自分で立てた計画であっても、いつかの休日と似通ったものになってしまうのだ。

温泉に着いたのは午後の5時20分だった。どうやら午後の5時を過ぎると通常価格から50円安くなるらしく、ラッキーだと思った。それまでの行動を振り返ってみると、本屋で切りがいいところまで読書をしていたり、動物がサウナをしているガチャポンを探したりといった時間があったからだと思った。
サウナ室に入るとテレビで日本陸上が放送されていた。桐生が5年ぶりに100m走で優勝したらしく、私は彼の名前を知っていたのでなんだか嬉しく思った。スポーツ選手というのは新しい世代に追い抜かれて行くものだと思うのでその中で彼のプライドと、努力を感じたからだ。サウナ室はほとんど埋まっている。私のような若い人から年寄りまでが同じ体勢で座っている。テレビを見ていたり、下を向いて目を瞑っていたり、各々が各々の世界に浸っていた。特に何分入ると、決めているわけではないので辛くなったら出ることにしていた。もう、出ようか。

サウナに入り、水風呂に入り、外気浴をする。喉の渇きを感じ水を飲むと、またサウナに入る。そのループを気の済むまで繰り返すことで気持ちが落ち着いてくる。今週も何かがあったわけではないのだが、頭が重い日が続いていた。夜中に目が覚めて背中が汗で濡れているという日が続いていた。本当に、夏にはうんざりさせられる。

 

 

からあげ

私はからあげが好きだ。衣がサクサクとしたからあげも、衣が張り付いているザンギのようなものも好きだ。私はからあげを研究しているので2週間に1回は家でからあげを揚げているし、美味しいからあげを作るための研究として美味しいからあげを食べに行ったりもする。からあげというのは奥が深く、柔らかさやジューシーさ、味付けなどどれをとっても、同じものは存在しない。利き酒があるのだから、利きからあげがあってもいいと思う。そう、私にはからあげのこだわりがあるのだ。
だからといって、からあげが好きだから毎日食べたいといわけではない。好みというのは、その日ごとの気分によって変わるものであるからである。毎日食べていれば、確実に飽きてしまうだろう。
最近、私の祖母がからあげを揚げることが増えてきた。何かあればからあげを揚げ、私はそれをみるたびにうんざりとした気分になる。初めは、嬉しかった。私はからあげが好きだからだ。しかし、からあげが好きだからといって、毎日のようにからあげを食べたくはないのである。困ったことに私の祖母はワンパターンな人間なのだ。私がからあげを好きだと言えば、何度も揚げてしまう。先月、私はらっきょにハマっていた。らっきょに味噌をつけて食べるというシンプルなものだが、味噌のしょっぱさとらっきょのピリ辛がマッチし、止まらなかったのである。そして、祖母に美味しいと言うと、毎日のようにそれが食卓に並んだ。初めは、嬉しかった。しかし、好きだからと言って一ヶ月も続けば、流石に飽きてしまう。だから、あまり好きだとか、美味しいだとかを言いたくはないのだ。一度言ってしまえば、それがずっと続くからだ。毎日同じものを食べるというのは苦痛に近い。白米のような主食とは違い、主菜はバリエーションが欲しいものだ。

テレビ番組でからあげの下味を白だしのみでしているという人がいたり、はちみつを入れて肉を柔らかくするという人もいた。どのからあげが自分に合うか分からないので、私は毎回違う作りからをするようにしている。そうすれば、いつか運命のからあげと出会えるかもしれない。その日が待ち遠しい。

 

 

ブラインダー

カフェでコーヒーを飲むのが男の些細な楽しみだった。その日もいつも通っているカフェに足を運び、窓際のいつもと同じ席に腰を下ろした。男が注文したアイスコーヒーがテーブルに運ばれてくると、それを一口飲み、男の休日が完成する。店内を見渡すと目の前に髪を茶色の染めたショートヘアーの人間がいた。半透明のブラインダーによって顔の前面が遮られているため、性別までは分からないが、髪型と丸まった肩を見て、女性だと思った。その女性は楽しそうに身振り手振りを動かしている。だが、対面に座っているはずに人間が見当たらなかった。ブラインダーに人影はなく、女性の肩から下は完全に見えない状態であるため、そこに人が座っているのならば、女性の肩よりも身長が低い人間であるはずだった。一体誰と話しているのだろうか。私は気になり、トイレに立つついでに確認しようとも思った。しかし、尿意はない。わざわざ確認するために席を立つというのも気が引けたので尿意が来るまでの間、対面に誰がいるのか、何があるのかを想像することにした。女性は、今も楽しそうに手を動かしている。少なくとも、本を読んでいるような気配はないのでやはり誰かがいるのかと思った。

女性の髪質からして年齢は60代よりも上だろうと思った。そうすると、対面にいるのは小さな孫かもしれない。子供であれば椅子に足がつかず、ブラインダーほどの身長もないだろうから。条件に一致する。もしくは、女性はオンラインで誰かと話しているのかもしれなかった。例えば、テーブルには横にしたタブレットが置いてあり、耳にはイヤフォンをして誰かと話をしているのかもしれない。これもあり得なくはないだろう。しかし、私からから見る女性の右耳にはイヤフォンはついておらず、ついているとすれば向こう側の左耳。それを確認するにはやはり席を立つしかないのだから、確実な根拠にはならなかった。
グラスの中の氷をストローでかき回しながら、一口啜った。他にどんな解釈ができるだろうかを考えていた。すると、女性は動きをとめ、急に静かになった。読書をしている体勢にも見えなくはなかった。しかし、先ほどまでの動きからして急に読書をするなどとは考えられなかった。

ふと、先日スーパーの惣菜コーナーで一人で話している男性がいたことを思い出した。その男性は駅のホームで流れるような言葉を発したかと思うと、議員などが車の上から行っている演説のような言葉を発し、俳句のようなものを詠ったかと思えば、孫との会話のようなものをしていた。私はその男性の耳を確認したが、イヤフォンなどがついているわけではなく、ハンズフリーで誰かと話しているわけではなかった。もしかしたら、目の前にいる女性も何もいない空間に向かって話しているだけなのかもしれないと思った。

私がノートに考えを書くように、俳優が鏡に向かって演技をするように、その女性も何もない空間に向かって何かをしているのかもしれない。そこまで、考えると私は満足し、持ってきていた安倍公房の「箱男」を開いた。見ている人間、見られる人間、見ていたいだけの人間。見られることを恐れる人間。私もただ、世界を傍観していたいだけなのかもしれない。物音がして、視線を上げると、女性は店を出て行くようだった。孫を連れているわけではなく、タブレットなどを持っているわけでもない。半透明のブラインダーの向こう側に何があるのか、分からなかった。しかし、今の私にはもうどうでもいいことだった。

 


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