週末の唄 第二十三回 個人的な今週のエッセイ R6.9/15-9/22

お品書き
今週の映画『シェイプ・オブ・ウォーター』
『フェイプ・オブ・ウォーター』という映画を観た。
アメリカの研究機関で働く女性清掃員とそこに運び込まれた美しくも奇妙な生命体との愛を描いたファンタジー映画である。
時代背景として、アメリカとソ連の宇宙開発が触れられていた。
水中でも地上でも呼吸をすることができる生命体を宇宙研究に役立てようとするアメリカとそれを邪魔したいソ連の抗争が描かれている。
私はこの映画を観た時にすぐに魅了された。
映画が始まると、チョコレート工場で火災が起きたという情報が映画に映し出される。
それに対して、主人公の友人である画家は、カカオのいい匂いがしそうだといい、それが最高の言葉選びに感じられた。
チョコレート工場が火事というネガティブな事象に対して、ポジティブな解釈をしている。
自分にとって関係のない事件をネガティブに語ってしまうのが人間だと思う。
要求されていないことを話せば、批判を浴びるかもしれない。
だが、自分にとって関係のないことくらいはポジティブに解釈したいものである。
その画家は、猫を失うことになっても相手を責めることはなく、もう一匹の猫にラッキーだったなと言葉をかける。
しかし、気に入らないことに関しては、声をあげている。
彼が通っていた飲食店の亭主が人種差別を行った時には、はっきりと否定していた。
映画には度々、好きなキャラクターというのが出てくるが、この作品に出てくる画家は、私好みの性格だった。
教養があり、芯があり、どこか柔軟だった。
そして、この映画を観ていて感じたのは、曲がとても素晴らしい。
音楽が明るければ、物事はポジティブに解釈することができると、そんなことを伝えられているような気がした。
『シェイプ・オブ・ウォーター』は、直訳すると『水の形』となり、この映画では、水が多く描かれている。
シャワー、沸騰した鍋、トイレに床にかかった尿、そして雨だ。
水の形がさまざまなようにこの映画で触れられている愛の形もさまざまだと思う。
画家は恐らくゲイであり、主人公は、生命体と恋に落ちる。
清掃員仲間の女性は、夫との関係性がうまく行っておらず、警務の監督官は、家族との愛が感じられず、歪んでいるように見えた。
なんというか、この映画は、全体的に美しいかった。
暗さ、残酷さ、奇妙さ、警務担当者が不安な時にキャンディーを噛み砕くといっていたように不安要素が散りばめられている。
謎の生命体というのも不安だ、だから暴力でh。服従させようとした。
悪事であっても、緊張し、相手にばれてしまわないか不安になる。
水の形、愛の形、不安の形
そんな、見えないものを音楽で美しく変化させている
そんな映画だった。
暇だから
悩みがある人、極端に言ったら死にたい人がいたら暇な状態をなくすことを考えてみてほしい。
人の脳は、衰えないようにある仕組みを作った。
それは、言うなれば永久機関のようなものでエネルギーは悩み事だ。
問題には答えが出てしまうため、エネルギーとしてはすぐに終わってしまう。
だが、悩み事のほとんどは解決せずにその場限りになる。
考えても答えが出ないものが、脳には都合が良かった。
答えが出ないものを追いかけるというのは、馬の前にニンジンをぶら下げることとさほど変わらないかもしれない。
つまり、暇な状態であると、悩みを持ち出して強制的に脳を働かせるという永久機関に入る。
悩みを考えても無駄なことだから、大量のエネルギーが非生産的なことに使われてしまう。
勿体無い。
気持ちが病んでいる時には、何もやる気が起きない。
だが、何もしないと悩みがきっかけで永久機関に陥ってしまう。
だから、何かをしなければならない。
自分の将来のために自己投資をするのもいいし、趣味を新しく始めるのもいい。
絵を描いたら、道が開けるかもしれないし、ハンドメイドで生計が立てられるようになるかもしれない。
社会にとって人間は、生きているだけで価値があるから。
自殺をしてはいけないと口うるさくいう。
確かにその通りだ。
消費者が減ったらお金が回らなくなるし、国民が減ったら税金を取れなくなる。
生きることは素晴らしいことということではなくて、国民が減ったら苦しくなるからという理由で自殺を止めるというのがどうしても気に食わない。
死を選んだという選択もその人にとっては大切なことであったはずだし、生ばかりが肯定されるというのが、なんだか面白くない。
個人の選択を優先すべきだと私は考えているので、生も死も同じくらい大切に扱うべきだと思っている。
なぜ、生や死といった話に流れてしまったのかというと、これも永久機関を回すエネルギーになりうると思っているからだ。
答えが決まっていないし、答えを簡単に決めてしまえば、それ以外の物を捨ててしまうというような抽象的な問いは、悩みの本質と似ている。
だが、悩みのように気持ちが沈むだけのつまらない時間潰しではなく、心が躍るような興奮を味わうのは、私だけではないはず。
暇という物は存在しない。
何かやることが決まっていれば、暇にはならないはずだ。
1時間でできること、5分でできること。
余った時間をどうやって使うのか管理することで暇がなくなる。
一周回って、暇も必要だというのが私の見解であり、暇があるから人生は充実するのだと思うようになっている。
早歩きで生きる人生もいいが、道に迷ったり、遠回りする人生もいいのかもしれない。
スズメバチの幼虫食す
家の近くにあった、オオスズメバチの巣を祖父の友人が取り払った。
ハニカム構造の中には、まだ真っ白で固まっていないスズメバチや幼虫が埋まっていた。
それをピンセットで一つずつつまみ出すと、蒸し器に入れた。
スズメバチを食べるのは、初めてだったが、少し興味があった。
祖父は、それを美味しいといい私は、味わわずに判断したくないと迷わず口に入れた。
味は、とてもクリーミーだった。
栗とウニを足して2で割ったような味で、カブトムシの幼虫も同じ味がするのかもしれないと考えた。
だが、私はスズメバチ、恐らく虫にアレルギーがあるのだと直感した。
喉がイガイガすると同時に痒みが現れた。
私は甲殻類にアレルギーを持っているため似た成分に反応を示したのかもしれない。
恐らく、キチンという成分が殻に反応しているのだろう。
そうすると、今後昆虫食が主流になっていくであろう地球で、昆虫食のアレルギーを持っていることになる。
食べるものがなくなってしまうと考えた。
虫は栄養価が高く、食料問題に大きく貢献できる。
どうすればいい、昆虫食に代わる栄養価が高い食べ物は何がある。
軽い、想像だったが、答えはすぐに出た。
米でいいか。
虫を食べることには、抵抗があったが、食べないで判断するというのは私の主義には沿わなかった。
食べて判断し、話して判断し、考えて判断したかった。
その結果、私はスズメバチを今後、食べないことにした。
最初で最後のスズメバチは、とても貴重な味がした。
気になる人は、食べてみてほしい。
巣から取り出した幼虫を蒸して、醤油やら砂糖で味付けをしたものだ。
口に入れる勇気さえあれば、誰でも食べることはできる。
ミニマリズム
ミニマリストのことを初めて知った時に私向きだと感じた。
物を多く持つことが豊かだと勘違いし、物に侵食され狭くなった部屋というのは、私にとってはゴミ屋敷同然である。
大切な物とは、長年の契約を結ぶが、記憶にないもの、ただの置物と化した物は、手間をかける物ではない。
だが、ミニマリズムにこだわりすぎると、殺伐とした空間が出来上がる。床の上にゴミがなく、整った配置の私物を見ていると至福を感じていた。
部屋に陰を作りたくないと感じている。
陰には、ゴミや埃が溜まるし、虫が巣食っているかもしれない。
ゴミを溜めておくと、そこには虫が湧くと考えただけで、ゴミ箱を常に空にしなければ気が済まなくなってしまった。
ちなみに今は、外に天日干ししてある。
部屋にゴミ箱は必要なのか、と考えると案外必要ないのかもしれない。
鼻を噛んだら、ティッシュをゴミ箱のある部屋まで持って行くといのは、気分転換にもなる。
部屋に最低限必要なものを綺麗に配置し、それ以外を廃棄した。
自分のルールを決めて、そのルールに沿わないものは部屋には入れない。
ミニマリズムというのは、独裁政権のようなものなのかもしれない。
もしかしたら、部屋にものが少ない人は、ルールにうるさく、自分ルールを持っていて、その境界線を曖昧にできないような芯を持っているのかもしれない。
こだわりの度合いは人によって違うと思うが、私のように無駄を嫌っていると、そのうち家具がなくなってしまいそうな感じがする。
万能なエンディング
私は子供の頃から映画が好きで色々な映画を観てきた。
そして、思ったのがなぜ、最後は愛なんだ。
この映画も、この映画も結局、愛か。
つまらんなと、そう感じてしまう。
マトリックスのリザレクションズという映画を見たのだが、その映画も最後には愛だった。
ワイルドスピードも家族愛について深く描かれている。
どうして、私はこうも愛を毛嫌いしているのか。
私自身に愛がないわけではない、ペットを大切に思っているし、映画で言葉にならないような感動を味わうこともある。
愛は、無償のものであるとか、母から子への愛情だとかの本を読んだし、優しさに触れて泣きそうになったこともある。
やはり、映画やドラマのように人間同士の関係を描くのには、愛が不可欠なのか。愛がないと、単調で機械的になってしまうのか。
どうしても、都合のいいようにしか見えない。
どんな悪党であれ、愛を持っているし、形だけの愛、偽物の愛という少し複雑なものもある。
ドラマを見るときに人間の感情の動きを追うほど、面白いものはないと思っているが、それはそういった作品しか見ていなかったからだけなのではないかと感じたりもする。
そういった不確定要素が、一切入っていない機械的な物語はあるのだろうか。
どこ病?
高校に入学した時、ほとんどの学生がする会話といえば
「どこ中?」
「〇〇」
「じゃあ、あいつ知ってる?〇〇とか」
「知ってる、知ってる。〇〇したやつだろ?」
「あいつさ、〇〇してたんだぜ」
「まじか、あいつやっぱすげーな」
「どこ中?」という言葉がきっかけで友達になったという人もいるのではないだろうか。
共通の友達がいるというだけで、会話は広がるものだ。
そして今回紹介したいのは、「どこ病?」である。
私の祖父が知り合いと会って話しているのを聞いた時に話していた言葉だ。
「最近、腰が痛えんだ」
「まともなとこを探す方が難しいよ」
「おれぁ、〇〇病行ってんだ。そっちは、どこ病行ってんの〜?」
私は、そのどこ病という言葉に親近感を覚えていた。
数年前に自分が誰かと交わした会話は、数十年後にもまだ残っているのかもしれない。そんな希望が見えたのである。
年寄りになると、まともに機能するものが少なくなっていき、どこかの病院に通うようになるのだろう。
そんな時に「どこ病?」という会話をしてみたいと思った。
ものすごく健康体であれば、病院に通うこともないかもしれない。
そのためにも少しずつ、体を壊していきどこかに病院に通っているお年寄りになるのもいいかもしれない。
「どこ病?」
「病院行ってねえよ〜」
「そっか〜」
健康でいることは大切だが、それ以上にコミュニケーションを取れる人と繋がりを持っておくことが大切だと思う。
恐らく、70歳を過ぎるまで使われない言葉だと思うが、その言葉を使うためにもあと半世紀ほどは、頑張っていきたいと思っている。
ペットとの時間
我が家のうさぎは、私のことが好きなようだ。
こうやってPCに文字を打っている時も私の足元をしきりに舐めている。
私は、犬を外で飼っていたことがあり、魚も水槽で飼っていたことがあり、ハムスターも部屋で飼っていたことがあった。
だが、なぜか猫が好きだった。
猫は飼ったことがなかったから憧れを持っていたのかもしれない。
猫も犬もアレルギーを持っているのだが、人の家に猫がいると自然とテンションが上がってしまう。
恐らく私は動物が好きなのだろうということも最近になってやっと自覚した。
動物には色々なイメージがあると思う。
犬はうるさい、猫は自由。
鳥は食べ物で、魚は完全に観賞用。
我が家で昔飼っていたハムスターは、とても元気だった。
ゲージの中の遊び道具を器用に登り、気が付いた時には脱走していた。
部屋の隅には、大量のひまわりのたねと餌が散らばっており、自分のお気に入りの場所に大量の食べ物を運び込むのだ。
朝起きた時にハムスターを叩き起こし、ケージへと戻すのだった。
ちなみに今、私は、ウサギの頭の上からタイピングに映る度にウサギの視線を感じるので、ウサギの気持ちを察しながら文字を打っている。
撫でて、打っての繰り返しである。
なぜだろう、動物の気持ちを無視する時、とても悲しい気持ちになってしまう。
もっと遊びたい、もっと食べたい、もっと撫でて。
そんな言葉が目から伝わってくる。
人のことはどうでもいいが、動物を裏切ることはできない。
私よりも小さいわけだから、寿命も当然短いわけだ。
つまり、構って欲しいというわがままも残り何回あるか分からない。
そんなことを考えていると、気持ちが勝手に沈み、悲しみを味わうくらいならペットを飼いたくないとも思ってしまう。
昔飼っていたハムスターは、飼い主に満足していたのだろうか。
私が、何かしている時に一人取り残されるペットというのは、完全に飼い主の所有物という感じがする。
生き物というより置き物に近く感じてしまう。
うさぎとの時間も残りどのくらいか分からないが、数年しか一緒にいなかったハムスターが死んだ時は涙が自然とこぼれてしまった。
どれだけの時間を過ごしたかではなくて、それだけ大切なペットだったのだと思う。
だからこそ、ペットを飼うのであれば、片手間で育てたくないという私のプライドがある。
構ってきた時に全力でそれに応えて、残りの時間を過ごすのだ。
私は、どうしても悲観的に物事を見てしまう。
今、元気でいるウサギの姿と将来老いたウサギの姿が重なって映る。
私の方が先に死ぬことが決まっていたら、そんなに悲観的に考えることはなかったかもしれない。
残る側にはなりたくないが、その気持ちを感じて欲しくないと考えると、私が残る側にならなければならないと思ってしまう。
終わりに
書く生き物というものは、書くことが呼吸と同じような意味合いを持っている。
書くことをしなければ、この世界で溺死してしまうかもしれない。
考えるきっかけ、考えが変わるきっかけというのは、そこら辺に転がっているもであり、気が付かずに通り過ぎてしまうものだ。
私は、それを幸せと呼んでいる。
そこら辺に落ちているゴミか何かと同じで意識を向けなければ、存在しないのである。
幸せになりたいと思っている人に幸せは見つけられない。
小さな糸屑ほどの変化に気が付けるようになれば、自ずと幸せは姿を現してくれるだろう。
ゆうらいふをもっと見る
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