第八十九回 個人的な今週のエッセイ R7.12/21-R7.12/28

ブログ活動

 

 

お品書き

 

今週の映画

月曜日のよふかし、水曜日のダウンタウン、金曜ロードショー、とそれぞれ何曜日とつく番組が好きな私だが、水曜日のダウンタウンが昔から特に好きだった。先週やっていた名探偵津田シリーズの第4話がかなり面白く、番組サイドの作りこみに本気度を感じて感動を覚えた。名探偵がひょんなことから100年前にタイムスリップしてしまう。ミステリーかと思いきや急なSF展開が始まる。その時に登場したのがデロリアンだった。デロリアンといえば、バック・トゥ・ザ・フューチャーのタイプマシンが思いつくのだが、実際に映画を観たことはなかった。名探偵津田が江戸時代に行き、エネルギー切れが起こった時に誰かが雷がどうとか言っていた。その時に私はバック・トゥ・ザ・フューチャーを観ることにした。雷の意味であったり、それ以外にも知っていれば色々と面白いのではないかと思ったからだ。

実際に映画を観てみると、ストーリー構成のお手本のような展開に驚いた。主人公の寝相の伏線や時計台に雷が落ちる話は綺麗に回収され、無駄のないストーリーであり、最後のアクシデントも次作へのバトンパスもかなりよかった。もっと早く観ておけば、といつも私は思うし、でも観ることができたことを純粋に嬉しく思うことがある。

このことを叔父に話してみた。バック・トゥ・ザ・フューチャーを初めて観て感動した。と、すると、スピルバーグは観ていて間違いがないから観た方がいいと言っていた。昔はテレビでスピルバーグの作品が放送されていたという。彼の映画は間違いがないからと、みんなが映画館に足を運んだ。黄金期というのだろうか。やはり、何事も王道を知るべきなのだろう。王道を知って、マニアックな道に進む。映画というのは歴史があるから、そういうものも楽しむことができる。

 

多様性という病

映画や小説で病気や障害を持った人の話がある。私はその人たちの現実を聞いて、自分が無知であることが恥ずかしくなる時がある。また、実情を知らない人たちの傲慢無知な物言いに嫌気がさすこともある。普通という状態を各々が思い浮かべているから、そこからはみ出した人たちを攻撃する。分からなくもない、だがそもそも、言えば聞く、とか、教えれば伝わる、とか、そういったコミュニケーションが通じなかったら、どうなるだろう。トム・クルーズは文字が読めない病気を持っている。それを知らない人は彼に文字で伝えようとして、伝わらないことが不思議でならないに違いない。なぜなら、文字は誰でも読めると思っているから。文字を読めないのは子供や別の国の人、そういった考えがあるのだと思う。

科学の発展や研究で見つかった病気で、その不思議が解決されていく。誰か権威を持った人間の研究で人は納得し、新たな病気を見出す。今生きている、祖父母の年代でも発達障害なのに、普通の生活を強いられているグレーゾーンの人たちもいるだろう。見つかっていないだけで隠れているものたちがうじゃうじゃいて、障害者だと証明がされていない人たちを頭のおかしな人と決めつけるに違いない。

そう思って人と接すると、許すことができる。相手の失言にいちいち文句を言わずにじっと、心の中でこの人はしょうがないと許すことができる。証明書をもらっていないだけで、発達が遅れているのかもしれないと思うから。

多様性が流行り出すと、少しおかしな人に何かしらの病名を与えないと気が済まないといった、風潮が見られた。個人の時代になった現代では、組織のお手本を皆が真似するということが求められるのではなくて、完全オリジナルの個性が必要とされる。だから、人は新しい病名を求めるかの如く変人化していく、私はそれがとても気持ち悪く感じてならない。
私は天邪鬼な性格だから、多様性が表に出ない時はそれを大切に思ったし、逆に誰も彼もが多様性と口走る世の中ではそれが気に入らないと思っている。
個性というのはそんなにも大切なものだろうか、と考えることがある。もちろん周りに合わせるといったカメレオンのような状態を望む人もいると思うが、皆が、自分は他人とは違う。と思っていてはマイノリティがマイノリティではなくなっていってしまう。本当の同性愛者が偽物の同性愛者にかき消され、本当の発達障害が偽物の発達障害に消されていく。仮病の子供を病院に運び、そのせいで本当に風邪を引いた子供の処置が遅れる。

だから、私は多様性という言葉がマジョリティ化していることに違和感を感じている。少しだけ生きづらい人間が大袈裟に振る舞えば大勢が迷惑するから。

 

 

Xmas

クリスマス、私はピザを食べようと思った。
近くのスーパーのでかい駐車場は、ほとんどが車で埋まっている。最近入り口の改装が終わったので人が前のめりになりながら他の客にくっつくように店に入る光景は見ることもない。ただ入り口のセンサー付近でカートに左手をそえて、携帯を右手に持った老人が小難しい顔をしながら止まっていた。カートがカップ麺タワーと化粧品棚の間の通路を半分塞ぎ、そこで止まるなよ、と思いながらもなんとかその場所を通った。今思えば通路は他にあったわけだからそこを通る必要もなかった。しかし、いつも通っている通路であったからこだわりがあったのかもしれない。惣菜コーナーの看板を目指し直線的に進んでいった。
惣菜コーナーでは出来立てのピザを店員が並べている最中だった。私はマルゲリータを買うことにし、最近飲んだビールを探した。ほとんどビールを飲まない私が興味を持ったビールは、唐辛子が入っているように後味がピリッとしたものだった。真っ赤なラベルのビールを探し一つ一つ見て行ったが、見つからず、諦めることにした。惣菜コーナーに戻ると腕を組んだ若い男女がいて、美味しそうだと笑いながら言っていた。私はその若い男女を見て、今日がクリスマスであることを思い出した。クリスマスだから楽しそうにしているのか、それともこれから楽しみがあるのかは知らないが、特別な日というのはやはり特別であるから予定を立てるのにも都合がいいのだと思った。

クリスマスだから、ケーキを食べるとかプレゼント交換をするとか、私は意味が分からなかった。誕生日もそうで、特別な日と言われるもの、それがあることが不思議でならなかった。だが、今は必要だと思っている。特別な日にしかできないことや言えない言葉があると思うし、普段の感謝のようなものは特別な日だからこを伝えられることだと思う。内気な日本人にはそういった理由が必要なのだと思った。

 

 


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