第百回 個人的な今週のエッセイ R8.03/08-R8.03/15

お品書き
王将戦
藤井聡太王将対永瀬拓矢九段の75期王将戦第5局の大盤解説会に行った。私の地元のホテルで行われたのだがその場所はよく将棋の対局が行われている。羽生さんや渡辺明さんも対局しているし、ロビーの1階には様々な棋士の扇子や写真が飾ってあったりする。どうやら歴史的に見て武運が強い地域らしく、そういった恩恵のようなものがあるからと、棋士たちが好んでいる、という話を聞いて、よく分からなかったが、しかし、藤井聡太も何回か来ているから、そうなのかもしれないと思った。藤井聡太は特産品の詰め合わせがいっぱいだと喜んでいて、肉とか野菜とか、米とか、そういうのがいいのかもしれない。
将棋にハマったのは1年前からだが、プロ棋士の凄さを実感するようになったのは最近になる。一瞬で先の展開を予想する能力がとてつもなく高く、大盤解説会でも、自然な手というものだったり、優劣、先の進行をほとんど正確に当てられていたから、プロの解説は終始、勉強になった。王将戦では藤井王将が逆転勝ちした。どちらを応援しているというわけではないのだが、藤井王将は角番に立たされているから、勝てて良かったと思う。
将棋の棋譜はネットで調べれば出るし、それも江戸時代の棋譜を見ることができたりして、将棋の歴史を知れる。私の好きな棋士がいるので、しばらくは、そういった棋譜で勉強したいなと思ったりしている。
いらん事
イランとアメリカ、イスラエルの戦争が始まり、ホルムズ海峡が封鎖した。石油はたちまち高騰し、遅れてガソリン価格も高騰したのだが、まさか1リットル30円も上がるなどとは思わなかった。
日本は戦争に無関心というか、ニュースでもほとんど取り上げられておらず、バラエティ番組でもアホな、どうでもいいようなことを放送しているだけで無駄な情報に溢れている。だが、こうしてガソリン価格の高騰という形で日常生活に支障が出始めると、途端に関心が向き始める。関心を持ったところで何も変わりはしないが、人々は関心を向け始める。
戦争というか、暴力というか、そんなのは世界中で起きていて、知らないだけでたくさんの人が泣いているだろうし、それはどうしようもない問題だと思う。そんなことは分かっているけど、自分に支障が出ない限りは関心を向けたりしない。全てに関心を向けていては疲れてしまうだろうし、何か解決に繋がるわけでもない。だからと言って、全く関心を向けないというのも、少し違うような気がする。
例えば、教室かどこかでいじめが起きて、なんであんなしつこく構ったりするんだ、と思いながらも、助けもせず、仲介もせずに見て見ぬふりをする。そのうちにそのいじめが大きくなっていき、教師やらが問題視し始めると、今度はその環境にいる全ての人に事情聴取のようなものが始まる。なぜ、を解消するために教師は情報を集めて、適当な納得のいく理由を探し始める。
教師たちはなぜ、いじめが起きたのかとしつこく聞くが、世界から戦争や暴力がなくならないのだから、教室で起きることが当然だと思ってしまう。戦争がじゃんけんとかで決まるという世界であれば、武器というのはやはり人を殺すためにあるから、必要がなくなるし、その分を何か有効に使えることができる。そうすれば泣いている人も今よりも少なくなるだろうし、貧困もいくらか解決するかもしれない。だから、しょうもないと思ってならない。きっと、自分たちの民族を地球上で唯一の種にしたい、的なホモ・サピエンスのような本能があるから、戦争がなくならないのだと思うし、勝手にしてくださいと思ってしまう。
虚無という病
心に穴が開くというか、頭に靄がかかっているというか、そんな状態を虚無と私は読んでいる。きっと誰しもが経験したことのある状態で、それは鬱とか、気持ちが沈むとか、疲れているとか、何か別の表現があるかもしれない。
私はそんな時に何か別の生物になりたいと考えたりする。野良猫になって、うろちょろして、好きにしたい、とか、鳥になって、適当に空を飛んでいたい、とか、動物でなくても、木になって、何も考えずにじっとしていたいとか考えたりする。
それと、たまに思うのが、お腹がすかない体で眠らなくてもいい体でずっと本を読んでいたいとか、考えたりする。温かい場所で明るい場所で他に何もいなくて、本があって、過去も未来も何もなくて、本だけがあって。
私は人との繋がりというのが嫌いでそれは、きっと何か自分にとって大切なものができることがたまらなく苦痛だからだろうと思う。完全な自由さというのは透明人間みたいなもので、誰からも認識されたりなんてしない。みんながそれぞれ透明人間でそれぞれに関心がなくて、ただ自分の好きなことをして、たまたま自分の好きなことが誰かと同じで、そんなようなものを私は夢見ている。
自分の好みを誰かに合わせたり、誰かの関心をもらうために自分に嘘をついたり、その関心を奪うために誰かを陥れたり。
人というのは、後者だから、気持ち悪く感じてしまう。寂しさを否定したりなんてしないし、誰かに認めてもらいたい気持ちも分かるし、嫌いな自分を少しでも飾りたい、と思うことも分かるけれど、気持ち悪さは嘘をつかない。
私は人が嫌いだから、その気持ち悪さをすぐに感じ取ってしまう。でも私は小説が好きで、純文学が好きで、人の内面を繊細に描く純文学が好きで、だから、結局私は人間が好きなのかもしれない。愛おしいからこそ、嫌いなのかもしれない。
このブログ
このブログを始めたきっかけは、何か人に見せる文章の練習をしたかったからなのだが、これで100回、つまり100週間ということになるから、少し離れようと思っている。実際上達したのかは分からないし、伝えることより、自分の書きたいことを優先してしまっているから、上手く面白さが伝わらなかったかもしれない。
ただ、いつまでも練習していられないから、次のステップに進もうと思う。
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