第七十回 個人的な今週のエッセイ R7.08/10-R7.08/17

お品書き
今週の本
元々、「信仰 著 村田沙耶香」(単行本)を持っていたのだが、文庫本には単行本に収録されたいない章が追加されていたので、私は迷わず購入した。
村田さんの本はどうしてこう、文章がすんなりと頭の中に入ってくるのだろうかと、彼女の文章を読むたびに感じる。村田さんの文章を読んで始まった私の読書趣味は、一周してここに回帰するのだ。硬派で分かりやすい文章を求めてみたり、独特な比喩や文体のリズムを求めてみたり、純文学で描かれる人間の繊細さを求めてみたりした。作者特有の癖が私の好みに結びつくものを求め、受賞作品を調べて、読了するを繰り返した。そして、結局、村田沙耶香なのだと、私は思った。
文章で使われる硬く合理的な言葉と、それを和らげるキャラクターの奇抜さ、そして彼女特有の独特な世界観が相まって村田ワールドが完成する。世界観もキャラクターも、文体も、全てが私好みなのだ。もしくは、初めて小説が好きになったと感じたきっかけが、彼女の作品であったから、こう感じているのかもしれない。赤ん坊が、生まれて初めて見る人間を自分の母親だと認識するようなそんな感覚に近いのかもしれない。少なくとも、私の読書体験での母親は彼女だった。そして、今後もその影響を受けながら生きていくのだろうと私は思う。
「信仰」は短編集となっているのだが、少しあらすじを書いて行こうと思う。
まずは「信仰」。この話は、カルト宗教ビジネスをして、金を稼がないかと、知り合いに持ちかけられる話だ。
カルト宗教という一般的に染み付いていないマイノリティー的なものと、一部の人間が影響を受けている高級ブランドとを比べ、その違いはどこにあるのかという疑問がかけられている。宗教でよく耳にする、高級な壺と、意識が高い人間が影響を与えた世間で広まる高級な食器。主人公は超現実主義者であったため、その両者の違いが分からなかった。
同じ学校に通い以前、マルチ商法にハマっていた友人は、いいものを薦めていると本気で信じていたらしい。そして、そのリベンジも兼ねて今回のカルト宗教ビジネスで教祖をするのだそうだ。
主人公は人を騙すことに激しい嫌悪感を感じていたのだが、それと同時に騙される才能を羨ましいとも思っていた。この人なら、私を騙してくれるかもしれない。そう思い、10万円のセミナーに参加することになった。
マイノリティーという中で、生きづらさを感じているというのが、村田沙耶香さんの小説から感じられるものだ。壺も高級な食器も、本質的には同じものであるのに、それらは全く別なものとして扱われてしまう。どちらも怪しいものであるはずなのに、盲目的に信じてしまっている。
一般的に教祖が存命の宗教をカルトと呼ぶのだが、この世界は少数の影響力を持った人間が、自分の価値観を持たずに影響を受けている大多数の人間を引っ張っている構造になっているのかもしれない。マイノリティー側の村田沙耶香さんからすれば、それが奇妙に映ったのだろう。そして、この世界がカルトのように見えたのかもしれない。
村田沙耶香作品はヤバい作品が多いのだが。私の好みと、読んだ方がいい作品をここに挙げていこうと思う。
「コンビニ人間」「地球星人」「消滅世界」「ギンイロノウタ」「丸の内魔法少女ミラクリーナ」「変半身」「殺人出産」「授乳」「生命式」
ジャズバー
「今から、ジャズバーに行こう」と、そう言われた私は二つ返事で了承した。元々、行動力があるわけではなかったが、そうやって衝動的に行動することは嫌いではなかった。かといって計画的かと言われればそうではなく、やはり、衝動的に何も考えずに身体を動かすことが好きなのかもしれない。時間は午後5時、開店は午後7時なのですぐに家を出た。
宇都宮の夜は久しぶりだ。と思ったが、先週も来ていたことを思い出した。東京ほど明るくはないが、余裕を持って歩ける程度に道が空いているので悪くはない。これくらいの密度であれば、過ごしやすいのかもしれないと感じながらも、人が集まる通りを避けるようにしてジャズバーへと向かう。裏路地に「近代人」という看板があった。白い文字が光り裏路地の一角に存在感を示している。ジャズバーは初めてだった。ドアを開けると、カウンターに並んだボトルと、重厚感のある黒い皮のソファが目に入った。店の奥にはピアノが置かれ、ドラム、ベース、トランペット、そしてピアノが音合わせをしている。午後の8時から演奏が始まるというのに、早く着きすぎてしまったようだった。正面の演奏が一番よく見える席に座った私たちは、緊張しながら、その時を静かに待った。
演奏前にはバーの席のほとんどが人で埋まっていた。落ち着いた雰囲気の大人がいて、その人たちはジャズが好きなのだろうと、当たり前のことながら私は思った。バンドの挨拶と共に客の拍手がバーに響く、そして、その拍手を破るようにしてトランペットの音が響いた。
それは、表現するならば爽快といった感じだろうか。何もない空間で叫びたくなるような衝動を発散するように、トランペットの爆音が鳴っていた。そして、その中にはトランペットの主張が確かに感じられた。ジャズは音楽の取り合いだと聞いたことがあった。演奏はピアノへ移り、ドラムへ、そしてベースへと移っていく。挨拶が交わされるようにその時々でしか聴けない音が鳴っている。この演奏は一回きりなのだと私は思った。似たようなパートを演奏することはできるかもしれないが、同じものは聴くことはできない。そして、その気持ちのいい演奏に奏者たちは酔っているようにも見えた。自分たちの演奏がバーを満たしている。そんな利己的な考えに私は満足感を感じた。
どうやってジャズを聴けばいいのだろうかと店内を見回していた。隣にいた男性は目を瞑り、足でリズムを取っている。トランペットのパートが終わり、拍手が響くと、私も同じようにして手を叩いた。緊張した口を飲み物で潤しながら、私は奏者の指元であったり、表情を眺めていた。奏者たちは目を瞑り、音楽に酔っていたのだと思う。最高のパート、その時々でしか奏でることができない演奏が成功すると、快感を得ているように表情が柔らかくなっていた。
これがジャズか。客も奏者も音楽に酔っていて、それを空間が共鳴していた。グラスに注がれた飲み物が天井の温かい色の照明を反射し、気持ちがゆったりとする。音楽、振動、照明、それらを五感が拾い、ジャズと一体化しているような感覚があった。私は、また行くだろうと思った。
花火
前日の衝動的なジャズバーへの突撃があったからか、私の頭に浮かんだものをどうにかしたいと思う気持ちが強くなっていた。私はその時、どうしようもなく花火が見たかったのだ。今日、花火を見なければいけないような気がした。調べてみると、近くで花火が打ち上げられるようだった。花火が打ち上がるまでの間、私は本を読み、時間を潰していた。家計簿アプリを開くと、最近、金を使いすぎていると危機感を感じる。今月と来月は抑えていこうとブルーな気持ちが覆い被さってくるように感じた。落ち着かない気持ちというか、行き場のないエネルギーが内で乱反射しているというか、なんだか気持ち悪い感覚があった。そして、その暗い気持ちは花火を見れば和らぐような気がした。夏の夜空に咲く壮大な花を見れば、その瞬間だけでも気が晴れると思った。
車の窓を開け、ドーンという重い音が外で鳴っている。山の影に小さな光を見て、私はその方角へ車を走らせることにした。アクセルを踏む足に力が入る。狭い道があり、視界が悪かったが、私の頭の中は花火のことでいっぱいだった。遠くで咲いている花火も悪くはなかったが、近づいて首を上に向けながら花火を見たいと思い、さら近くへと向かった。
子供の頃、花火を見に連れて行ってもらったことがあったが、そこまで好きではなかったと思う。夏の当たり前のような光景だと思っていたから、そこまで花火に熱中する理由も分からずにいたのかもしれない。だから不思議だった。20歳を過ぎ、どうして急に花火が見たくなったのかが疑問だった。花火は一緒に見る人も大切だと聞いたことがあった。もしかしたら寂しさのようなものも感じているから、気持ちが沈んでいたのかもしれなかった。亡くなった祖父やいとこと、田んぼの脇道で見ていた記憶を思い出した。お盆だからだろうか。
念願の花火が上がり、その美しさに自然と気が晴れていった。空に打ち上がる一本の線から、光が咲き、音が身体の細胞を振動させた。花火を見るという、一つの行動に全身の神経を集中させていた。次々と多種多様な花火が咲き、満足すると私は家に帰ることにした。
歩道では浴衣を着た人間が空を見上げていた。私は花火の音に耳を傾けながらも、まっすぐ前に視線を向けた。
いきもの
無機物は有限であるのに、有機物は無限に増えていく。だから、私は生き物というものに恐怖を感じることがあった。だが普通、人というのは恐怖を単体で感じるわけではなく、その対象に崇拝する気持ちのようなものも抱く。富士山が恐怖の対象、信仰の対象となっているように、日本には自然崇拝がある。だから、植物が緑を増殖させていく様子を見ていると、いつか覆い尽くされてしまうかもしれない、という恐怖と共に、生き物の尊大さを感じる。
緑は圧倒的な存在感を持っているから、枯れることがあったとしてもなんとも思わない。大切に育てていたものが枯れるのは嫌だが、別の緑がそれを補っているわけだから、勝手にどうにかなると思っていた。だから、こそ、植物のように強い生き物ではなくて、動物のような弱い生き物が弱っていくと、胸が締め付けられるような感覚になる。
久しぶりに会った猫は、人間でいう75歳だという。10年分ぶりほどだろうか、その変わり果てた姿に全く別の猫ではないかと疑った。背骨はゴツゴツとし、顔が逆三角形に細くなっていた。食欲がないのだそうだ。元々、人懐っこい猫だから、私が撫でようとしても嫌がらず、擦り寄ってくる。きっと私のことは覚えていないだろうと思った。人の温かみを感じたいようで、目を細めながら喉を鳴らしていた。
この猫もすぐに死んでいくのだろうか。そう考えると、途端に悲しみが込み上げてくる。生き物が死ぬことは当然のことであるから、仕方がない。しかし、悲しい。昔飼っていたペットのことを思い出すし、今飼っている生き物のことを考える。
私たちが生きている限りそういった悲しみは消えることはない。そう考えると、気が沈む。お盆だからだろうか。
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