第三十四回 個人的な今週のエッセイ R6.12/01-12/08

お品書き
『博士と彼女のセオリー』
今週観た映画は、『博士と彼女のセオリー』という作品だ。
この映画は、スティーブン・ホーキング博士を題材にした映画であり、博士と博士を支えていた女性の話が描かれている。
ホーキング役を演じるのは、ファンタスティック・ビーストなどで知られる、エディ・レッドメインで彼は、ホーキング博士を苦しめた難病を見事に演じていた。
何年か前、この映画を観た事があるのだが、前回とは感じ方が大きく異なった。それは、ホーキングを支えた、妻のジェーンについてである。
彼女は、ホーキングの病気を知り、それでも彼と人生を過ごすことを決めた。しかし、現実は残酷なもので、時間とともに弱っていくホーキング。彼らには、子どもたちもいて、ジェーンの心は、だんだんと死んでいくのだ。
そんなある時、母親からの勧めで、聖歌隊に参加することになった彼女だが、そこで、運命の出会い、のちのジェーンの夫になる男性ジョナサンと出会うことになる。
彼は、夫が難病だということを話すと、ジェーンの手伝いや子供たちとの世話をしてくれるのだ。
余命2年を宣告されたホーキングは、研究に力を注ぎたいと言い、ジェーンとの関係を終わらせようとする。
しかし、ジェーンは、ホーキングとの未来を選ぶことを決心した。
やがて、ホーキングが肺炎を起こした際に人工呼吸器を取り付けるよう、医者に提案される。
ホーキングは、言葉を失い、言葉以外でのコミュニケーションをするようになる。
介護士を雇うようになってからというもの、ホーキングとジェーンとの時間が短くなっていく。
そして、ホーキングは、ジェーンへの感謝を示し、別々の生活を送ることになるのだ。
ホーキングがジェーンを愛していたからこそ、自分の介護ではなくて、彼女自身に幸せになって欲しかったのだと思う。
『インターステラー』では、愛は時間を超えるという言葉が出てきた。
それと同じで、『博士と彼女のセオリー』というのは、愛についてなのだと、改めて感じたのである。
ランニングマシーン
私は、昔から走ることが嫌いだった。
そして、走ることが大して健康的ではないことを後から知った時、私の人生から走ることの意味がなくなった。
20分以上のランニングは、脂肪よりも先に筋肉を分解してしまう。
筋肉は脂肪を燃焼させる効果があるので、逆効果だ。
元々、ダイエット目的で走っていたわけではなかったのだが、ランニングは怪我のリスクもある、やはり、一番の運動は散歩なのだ。
散歩は、怪我のリスクがほとんどなく、自然の中を歩けば認知能力の向上があると、科学は発見している。
そして、運動をする理由の一つは健康面への投資だが、それよりも大切なものは、脳の神経ニューロンの繋がりを強くするということにある。
これは、BDNFという物質の活性化を意味しており、認知症を防いだり、学習効率を上げる事ができるのだ。
脳の神経同士の繋がりを強くするものであり、新しいことに強くなれる。
私の家には、ランニングマシーンがあるのだが、今の季節は寒いので、はじめに体を温めるため、20分走る。
そして、体が温まると歩く。。
本当は、公園を本を片手に歩きたいのだが、近くに公園はなく、本を読んで歩くのは、危険なので、機械を使っているというわけだ。
映画を見るのでも、本を読むのでもいいが、体が固まった状態で集中していると、筋肉が固まるような感じがしてしまう。
ふくらはぎは、第二の心臓と言われている通り、下半身の血液を上半身へと押し戻してくれている。
健康的な生活は、気持ちがいいもので、中毒になりそうだ。
ちなみに作家の村上春樹さんは、毎日約10kmのランニングを行い、その後執筆を行なっているらしい。
机の前で勉強すれば、頭が良くなるかもしれないが、私たちの脳は、1万年前から変わっていない、1万年前の私たちは、狩りを行なっていた。
体を動かせば、頭が働くようにできているのだ。
ロケットエンジン
戦闘機は、なぜあれほどの速度で飛ぶことができるのか、機体の空気抵抗もあるだろうが、それは、やはり、あのエンジンに秘密があるのだろう。
ロケットもそうだが、莫大なエネルギーを先端の空気孔が一点に集約させている。
ホースから水を出すときに先端を摘めば、水の勢いが強まるように空気孔が小さければ、小さいほど、爆発的なエネルギーが噴出されるのだ。
そんなことをなんとなく考えたのは、時間と似ていると思ったからだ。
無限にあると思っている時間は、ある意味、莫大なエネルギーを指している。何もしなければ、すぐに過ぎ去っていってしまう時間だ。
計画によって、エネルギーに指向性が生まれる。
そして、その時間の質が大幅に向上する。
時間がないと感じる時こそ、決まった日課を効率的に運ぶ事ができるのは気のせいではないだろう。
日課は、固定費のようなもので、流動費のような自由に使える時間がだんだんと少なくなっていく。
しかし、そんな日に限って、充実感を味わう事ができるのだ。
出力するための穴を小さくすればするほど、威力を発揮する事ができる。
やらなければならないこと、に集中し、エネルギーを放出させるようにしていけば、それだけ高く飛ぶ事ができるのだ。
時間がないという現実を変えることはできないが、無駄な時間を1秒も使っていないと、言い切れる人いるだろうか?
使い方が肝心だと思う。
使うべきタイミングで、使いべき量を調整するのだ。
みんな何やってんだろう
私が一人でいる時に、他の人のことを考えることは、ほとんどない。
この前、知り合いと会った時、「みんな、何やってんだろう」と口に出してみた。
そして、口に出してから気付いたのは、私はそもそも、どこで誰が何をしていようと、自分には関係がないと思っていたことだ。
誰が結婚した、誰がどこに就職した、というのは、私にとっては、昨日の天気がどうだったかというくらい、どうでもいいことなのだ。
「お前、友達いたっけ?」
確かに、そうだ。
友達が少なければ、余計なことに時間を割く必要がなくなる。
私は、そうやって考えているので、孤独を感じた事がないのだ。
「友達」という言葉を聞いた時に感じるのは、マイナスなイメージであった。私的には、何かを目指す「仲間」というものの方がしっくりくるもので、無駄な会話をする事が嫌いだった。
その会話に面白さを感じ取れればいい、だが、誰かの愚痴を聞いたり、どうでもいい音を聞くことに私は耐えられないのだ。
誰かといる時は、一人の時間で何をしようかを考えてしまう。
やらなければならないことだったり、やりたいことだったり、そういったことが多いと、友達というのがどうしても邪魔に感じてしまうのだ。
私がやりたいことが相手と同じになった時、そこに仲間というものができる。
目的のない人生には、なんの価値もないと、誰かが言った。
それと同じで、目的がない人間関係もなんの価値もないのだ。
私は、薄情なのだろうか?
それでも、お互いの時間を有効に使えるのであれば、むしろ好都合だと開き直ってしまう。
執着
執着というのは、自己愛の表れらしい。
もしくは、自分には価値がないという心理からも相手への執着が湧くのだそうだ。
私は、人を好きになることが無駄なことだと感じている人間だ。
『博士と彼女のセオリー』の異性間の愛や『インター・ステラー』の親子間の愛など、愛がどういった形なのかを知ることは好きであるし、愛が無条件のものであることも理解できる。
だが、それに触れたいとは思わないのだ。
それを容器か何かに入れて観察するのは、魅力的かもしれないが、その愛に自らの手で触れたいとは思わない。
もしかしたら、それが怖いものだと心のどこかで信じているのかも分からない。
自己分析をしていると、自分の性格がいかに捻くれているかが分かってくる、そして、なぜ、捻くれてしまったのかという仮説を立てるまでが、自己分析なのだ。
愛や道徳、共感、人間社会で効果を発揮するものたちは、すべて技術で賄えると私は、本気で思っており、だからこそ、偽物が真似することのできない優しさというものに心から惹かれてしまう。
優しい人間は、大好きで、優しい人間になりたいと心から思っている。
しかし、優しさを知れば知るほど、優しさというものが特別なもので、先天的な才能のようなものであると、感じてしまうのだ。
優しさに触れると、涙が出そうになる。
温かさと柔らかさに全身を委ねたくなってしまう。
しかし、そこで甘えることが、私の弱みを曝け出しているようにも思える。
この人になら、という人に出会うことができたら、私は大きく変わるかも知れないが、それは、その時の自分の反応が気になるだけかも知れない。
ネガティブな言葉
「実は、死のうとしていた」という言葉を吐く人間は、本当に死のうとしていたのだろうか?
そんなことを考えていた。
それとも、私にその言葉を吐くことで、ストレスの発散を行なっているのかも知れないとも考えていた。
私も、同じように心が沈むことはあるが、誰かにわざわざ言ったりは、しない。なぜなら、誰かといる時にそんな、つまらない話題を自分から出したくないと思っているからだ。
流石の私も、誰かに相談されれば、話を聞いたりすることくらいはできる。アドバイスは、烏滸がましいもので、むしろ話を聞いてあげるだけでいい。
人にとってのストレスの発散方法があったとして、私はそれに付き合うべきだと勝手に思っている。
どうでもいい愚痴を好き好んで聞きたいとは、思ってもいないが、死にたい人がなぜ、そんな気持ちになるのかということも含めて、話を聞けば、楽になるのであれば、喜んで聞きたいと思っている。
死にたい人が、人を卑下する言葉を使っていたり、ネガティブな言葉を周囲に撒き散らしている場合は、少し関わり方が変わってくる。
精神的に幼い人間は、自分への注目を集めるためにわざわざ、そう言ったことをするので、心配した側が損をしてしまうのだ。
損得で物事を見ているわけではないが、全員に同じ関わり方しても意味はない。
条件を絞っていけば、助けが必要な人が見つかるはずである。
確かに、私は、利己的で薄情かも知れない。
だが、誰かの助けになるのであれば、その時間は無駄ではないと思っている。
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