第二十九回 個人的な今週のエッセイ R6.10/27-11/03

ブログ活動

 

お品書き

今週の本「私は障害者向けのデリヘル嬢」

表紙を見て、なんとなく面白そうだなと思ったので、手に取ってみると、最後まで手が止まらなかった。

この本の著者は、障害者向けのデリヘルをしていて、その中で感じたものをエッセイとして書いたところ、出版社からオファーが決まったらしい。
業界の裏や、実際に障害者と接してみた時に感じたギャップ、そして、著者がなぜ、その職業を選んだのかというところまで細かく書いてある。

元々、私は社会的にマイノリティな問題についての物語を見たり、考えたりすることが好きなので、この本を読もうと思った。
しかし、中には、デリヘルという言葉を見て、手に取るのを躊躇う人もいるかもしれない。
タイトルの、障害者もデリヘルも、差別している人がいるかもしれないマイノリティになってくるからだ。

差別を意識している時点で、差別する側になってしまう可能性があるというのも、差別がなくならない原因だ。
例えば、私が、マイノリティについて知った方がいいと思っていたとする。
だが、それに熱を入れすぎると、「なぜ、知ろうとしないんだ」、「知ろうとしない人は、おかしい」と言ったように、相手を卑下してしまう。

マイノリティについての理解がない人への差別が起こってしまうのだ。

では、差別を行わずに純粋な気持ちで相手と関わることができるのは、誰なのか、それは、子供であると思う。
純粋に遊びたい、仲良くなりたいという気持ちが前面に出ている時期は人間が一番純粋な期間なのだと思う。

子供は、大人の先生であると、常々思う。

障害者などに過保護になったり、逆に全く関わろうとしなかったり、または、障害者が、自分の不幸を棚に上げて、相手を責め立てたり、そんな映像が頭に流れている。

似たような人は、山ほどいるが、同じ人間は一人もいないと考えると、自分の対応が単調であればあるほど、現実との齟齬が生まれると思う。

 

世界遺産検定

世界遺産検定をなんとなく取りたいと思い勉強をし、はや10時間以上が経った。
私は1級のテキストを購入したのだが、上中下の3冊を合わせると、かなりの厚みとなる。
世界遺産はなんと1200件もある。
確かに毎年、追加されるものではあるが、そこまでの量を覚えることができるのかが不安になった。

日本の世界遺産は、26箇所となっており、1級の試験となると、それぞれの構成遺産であったり、より細かな問題が出題される。

1級を受けるには、2級の資格が必要なのだが、私はそもそも世界遺産検定の3級すら持っていないので、2級に挑戦しなくてはならない。
なので、最初から1級を勉強しようというわけだ。
とりあえず、それぞれの名称だけは頭に入れ、その後に順次遺産のごとの勉強をしていこうと思う。

私は世界遺産や歴史が好きというわけではないので、本当に暇つぶしのつもりで勉強をするのだが、有資格者と世界遺産が好きというのとでは、全くの別物だと思う。
世界遺産が好きですと言っても、どの程度知っているのかが分からないし、趣味の好きというのは、どこか軽んじられるような気がする。

誰かへの証明のようになるというのは、なんだか嫌だが、世界遺産などの知識を勉強すれば、同時に歴史を知ることができ、そうすれば、博物館に行く時、旅行をする時により一層楽しめるような気がする。

とりあえず、3月の2級に受かることができるように頑張りたい。

 

虫を見ていると

虫に限らず、生き物を見ていると、その生き物の食欲に魅了されてしまう。
腹を満たすという基本的な生理的欲求に従順になっている姿は、何度見ても飽きることはない。

マズローの欲求階層で最下層にあるのが、この生理的欲求である。
生理的欲求が満たされると、次は、安全と安心を満たすための欲求が働く。
ペットにおやつをあげる時に食いついてくるということは、この最下層の生理的欲求が満たされていないからなのだろうか。
餌に満たされたペットは、次に安全と安心を満たすための欲求が働くのだろうかと考える。

安全と安心を満たせば、次に所属と愛情を求め、そして、承認される欲求が働き、最後に自己実現の欲求を求めるようになる。
ペットが欲求のピラミッドを最終段階まで駆け上がっていったら、どんな生活を送るのだろう。

自己実現しようとするウサギや犬というのが全く想像できないが、人間味を帯びた、可愛げのないペットができるに違いない。

人間は、腹が減っていても、食べることをめんどくさがっていたり、皿にがっつきながら、食事をするということをプライドが遮ってしまう。
人の皮の内側で起きている、欲求の連鎖が、理性で守られてしまうと、少し残念に思えてならない。

だからこそ、虫やペットが、餌を食べている姿に惹かれてしまう。

 

政治家の言葉

裏金の事案に関わっていた政治家が、口を揃え、
「もうしません、信じてください」
と言っている。
信用を積み重ねるのが、死ぬほど難しいことを本人が知っているはずなのに、崩れた評価の上で形だけの笑顔と冷や汗を浮かべ、綺麗な言葉を並べている。

いつも寝坊している人が、
「明日は、早く起きよう」
と言っている。
それは、何かが変わったから、明日は早く起きれるという自信があるということなのか、いや、違う。
気持ちが変わったというのは、つまりは、何も変わっていないということだ。

政治家が、反省を口にしていることと、お寝坊さんが、抱負を述べているというのは、同じはずなのに、私たちは、それらを別々にして考えてしまう。

国民の信頼を裏切ってきたので、これからは、目に見える形で国民のみなさまのために働いていきたい、具体的には、、、。

明日、起きることができなかったら、現金で10万円払います。
明日、起きることができなかったら、この会社を辞めます。

気持ちが入ったのであれば、行動できる自信があるということ、であれば、それだけのリスクを背負っても問題ないはずだ。
そして、それは自分が自分に嘘をつかないための代償でもある。

私は、そもそも政治に関心がないので、ご自由にしてくださいという感じだが、口先だけの政治家を反面教師として、自分の行動に負荷をかけた方がいいということを感じた。

自分に甘くなってしまうことも、自分を大切にすることも大事なことだが、自分に負荷をかける練習をしないといつまで経っても成長できないような気がする。
自分との約束を口約束にしてしまえば、制限が効かなくなってしまうので、そう言ったことから守るようにしたい。

政治家は、首から上が必要なのではない。
首から上、鼻から下が必要なのである。

 

レバニラ

テレビで紹介されていたレバニラ定食を食べに行った。
『豚臓』という店で、恐らく、夜は、居酒屋、昼は定食屋というようになっている。
11時30分から開店で、番号札を取り、その番号をお店の人が呼びにくるという感じだ。
レバニラの提供数も決まっているらしく、番号札の上限が日によって違うらしい。

今回は、その『豚臓』に行ってきたのだが、そもそも私は、レバニラが好きではない、見た目が美味しそうだと思い、買って食べてみると、飲み込むことができずに捨ててしまうということが以前にあったからだ。

美味しそうな名前で、ニラがいい感じなのにレバーの食感が全てを台無しにしているのだ。

そこまで、嫌いなのになぜ今回、食べようと思ったのか。
それは、ある仮説を検証するためだ。
私がレバニラを好きでないのは、美味しいレバニラを食べたことがないからなのではないか?

そして、一口目を食べてみた。
私の思っていたレバーは、砂の塊のような食感だったが、この店のレバニラは、最初の一口がプリッとしていて、とてもいい食感だった。
口の中で噛んでいるうちに「ああ、レバニラだ。」となり、もやしやニラで味を誤魔化しながら、食べていくことになったが、今まで食べたレバニラとは、違うと感じた。

私は、レバニラが嫌いだが、今まで食べたレバニラの中では、一番美味しかったと断言できる。

映画も料理も同じで、楽しみ方、味わい方を知らないのではないかという感覚を持つと、つまらなさに出会う代わりに学びに触れることができる。
もしも、レバニラが嫌いな人がいたら、
栃木県のさくら市にある『豚臓』に足を運んでみるのもいいかもしれない。

ちなみに私は、春菊とセロリがかなり嫌いだが、あれは、調理しないであの味なので、美味しいと感じることは今後もないのだと思う。

 

 


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