週末の唄 第九回 個人的な今週のエッセイ R6.6/9-6/16

こんにちは、ゆうらいふです。
今週も個人的な今週のエッセイをやっていきます。
今週は、11あるので、気になるところだけでも読んでいってください。
お品書き
信仰できる人
9日に宗教施設に行ってきた。
私の予想は、概ね当たっていてそれが少し辛かった。
それは、どんな予想なのかというと、信者の方がそこら辺にいる人よりも優しい人たちが多いのではないかという予想だ。
私は、今まで、信者というのを可哀想な人たちという目線で見ていた。
生きがいを与えられ、自分の資源を惜しみなく注ぎ込んでいる。
それで、誰か得をしている人がいるのだから、利用されている哀れな人たちだと思っていた。
だが、そのうち考え方が変わってきた。
自殺をするよりは、マシなのではないかというものだ。
信仰に大金や自らの時間を注ぎ込むことで、彼らは命を買っているのだと思った。
ブランド品を買い漁ったり、行列のできる飲食店に並ぶというのは、私には理解できない。だが、それと似ているのではないか。
たまたま、世間での流行りごとにハマれなかった人たちがいく場所が宗教なのではないかと思った。
そして、そこら辺にいる人よりも優しいのではというのは、例えば、子供をほったらかして、携帯をいじっている親だったり、迷惑をかけておいて、迷惑をかけていることにすら気付くことのできない人たちよりも価値があるように感じたことだ。
完全に私の価値観になるが、私が最も嫌うのは行動を邪魔される時だ。
子供が泣いているのをほったらかしている親や道端にゴミを捨てる人などはに対して意識してしまっている私も悪いが、我慢することに労力を使うというのがバカらしく感じてしまう。
信者は、話を聞くことを教わっているし、利他的な考え方を教わっている。
危ないことをされたり、勧誘されたりしないのであれば、そちらの方が生きやすい世の中になるのではないかということを書いた。
今まで、なぜ宗教が怖いのかを考えてこなかった。
誰かが言った。ただ、怖いという言葉をそのまま信じていたのだ。
それに気が付いた時に何の根拠もないことを信仰していた自分が怖かった。
世の中というのは、多数の何も考えていない人たちが何かを信じることによって動いている。
何か考えている人がいる方がおかしいのだ。
だからこそ、何の根拠もなしに信じるということに疑問を持たなくなってしまう。
思い出の上書き
ゲームセンターに久しぶりに行った。
誰かに誘われなければ、絶対に行かない場所だと思う。
それは、私が興味のある場所にしか行かない性格でショッピングモールなどは、本屋に行くかカフェに行くかくらいしか選択肢がないからだ。
今回、ゲームセンターに行ったことで、昔の思い出に触れた。
私が小さい時は、家族でゲームセンターに行くことがあった。
コインゲームをしたり、UFOキャッチャーをしたりそれは、楽しい思い出だった。
だが、そのうちに嫌な思い出ばかり溜まっていくようになった。
嫌な記憶は印象に残りやすく、他の楽しい思い出というのが消えていった。
ゲームセンターでUFOキャッチャーをした時に懐かしい気持ちになった。
ひとつ出てくれば、それと似たようなものが次々と浮かんできた。
そして、嫌いな思い出だけではなかったのだと思った。
脳は、都合の悪いことを隠す、だから自分の考えていることを信じるために良い思い出というのもは、消えていたのだ。
それは、黒い絵の具に白を混ぜたようなものかもしれない。
私の脳は、UFOキャッチャーをすることで、良い思い出を次々と思い出した。
思い出というのは、都合がいいものだ。
昔は、UFOキャッチャーが苦手で景品は、ほとんど取ったことがない。
初めて取ったのは、祖父との最後の旅行の時だ。
癌に侵されていた祖父と家族で旅行に行った。
私は、泊まった旅館で、猿の人形を取ることができたのが、人生で初めて景品を取った記憶だった。
それを祖父に渡し喜んでくれたのを覚えている。
祖父は、その後すぐに亡くなってしまったが祖父の家には、今でもその人形があり、その人形を見るとうっすらとした記憶を思い出す。
今回はマリオカートのピーチ姫を取ることができた。
それを集めていた父にとってあげようと思った。
UFOキャッチャーは、自分の欲しいものを取るために行うのではなくて、取れそうなものを探して行うのだと思う。
私は、それで思い出を手にすることができた。
良い記憶というのは、すぐに覆い被さってしまう、だが何かのきっかけでそれは姿を現し、メッセージを伝えてくれる。
時間が経った自分の価値観が昔の出来事を違った形で見せてくれるのだ。
良い思い出は案外すぐに消えてしまう。
だったらどうすれば良いのかというわけでもないが、良い思い出は覚えていないだけだと考えた方がいいのかもしれない。
突然変異を起こす
工夫とは、何かと考えた時に私は、環境の変化だと思っている。
工夫をして、それで結果が出れば環境に適応することができたということだ。
私たちは、がむしゃらに何かを行うということを美学だと教え込まれてきた。
だが、そんなものは何の意味もないのだと思う。
考えることを放棄し、それを美学だと自分に言い聞かせている。
生き物が進化してきたように私たちに必要なものは、突然変異だ。
今までのやり方を否定し、新しいやり方を見つけ出すことが生き残るために必要なのではないかと思う。
もちろん、新しいやり方で生き残るとは限らないが、今までのやり方がこれからも通用するとは限らない。
新しいやり方を成功するまで試すことというのは、工夫をすることなのだと思う。
私は、今までのやり方ではダメだと感覚的に言っている訳ではなく、生き物はそうやって進化してきたから参考にしているだけだ。
キリンは、元々首が長かった訳ではなく、段々と首が伸びていった訳ではない。
たまたま、首が長い個体が生まれて、それが生き残って行ったのだ。
何かを続けていて成果が出ない人がいるのであれば、一度考えて見てほしい。
工夫をしなければ、いつまで経っても突然変異が起きることはないと。
創作物の勧め方
創作物を誰かに勧めるときにどんなことを考えればいいのか。
どこが面白かった。どんな話だからおすすめ。
人に映画や本を勧めるというのは、かなり難しいことだ。
話せば話すほど相手は、興味を失ってしまい、話せば、話すほど相手に作品の魅力だ伝わる訳ではない。
では、そうすればいいのかを考えてみた。
それは、ストーリーを無視するということだ。
ストーリーというのは、目で見たことをそのまま淡々と語るようなものでそれでは、相手に魅力を伝えることはできない。
ストーリーは、補足する程度まで無くしていいのではないかと感じた。
そして、私たちが魅力を伝えるためにすることは、答えを隠しながらドラマを伝えるということだ。
主人公にどんな障害が訪れて、どのような方法で解決しようとするのか、そしてその映画の1番面白いと思ったシーンを話せばいいのだ。
「観客は、シーンを見に映画館に来る」
これは、宮崎駿氏が言った言葉だ。
良い映画というのは、見る人によって様々な解釈ができるもので、解釈が一通りしかできない映画というのは、あまりお勧めできない。
一つのテーマを2時間かけて観客に伝えていく。
その2時間で一人一人が違う考えをする。
それを語れば良いのではないかと思った。
ストーリーを伝えようとするとどうしてもつまらなくなってしまう。
それは、ストーリーというのがパターンだからという話をした。
シーンを自分なりに解釈する。
それこそが映画の楽しみなのだと思う。
そして、人は共感したい生き物だ。
自分は、こう考えて、相手はこう考えた。
その違いを語り合うというのも面白いのだと思う。
宗教施設の手土産
宗教施設で、クッキーのようなものを手土産にもらった。
私は、少し怖いと感じていたが、それを食べる理由があった。
それは、少し怖いと感じてしまったからだ。
ただ、宗教施設でもらったというだけで、クッキーを否定したくなかった。
私は、普段は菓子を食わないのだが、そのクッキーは食べなければいけないと感じていた。
もちろん、自分のためにだ。
私は、差別というものをしたくなかった。
無意識に行っているものもあるかもしれないが、クッキーを捨ててしまえば大多数と同じになってしまう気がした。
私は、大多数になることを恐れていた。
そのクッキーが、母親の作ったものであれば、迷わず食べ、店で売っているものであっても迷わず食べる。
それが、宗教施設だというだけで、捨てるという選択が頭に浮かび、刑務所の人が作ったというだけで、気持ちの悪い想像をする。
そんなことを自然に考えてしまうのが嫌だった。
誰が作ったのかは関係なく、お菓子というものを悪だと考えていた時もあった。
発がん性物質の塊であり、そういった食べ物のせいで、日本は癌大国なのだと思っていた。
食べるという選択から外すことは簡単なのだが、誰かに薦められた時に起こる葛藤をどうやって逃れるのかを考えていた時もあった。
そこで考え方を変えた。
食べたくないのに食べさせられると考えることがストレスになるのだとしたら、何も考えずに食べた方がいいというものだ。
添加物を意識して生活している人は少ない。
海外では、グルテンを認めない人たちがいるが、日本では小麦粉を悪いものだと考えている人はほとんどいない。
健康ではなくて、安さで食品を選ぶ人が多い中で食材をこだわるのはバカらしく感じるのだ。
だが、クッキーは別だった。
プライドのようなものが湧いてきたのだ。
素材ではなくて、人の好意を拒絶してはならないというもの、どんな気持ちでクッキーを作っているのかは分からない、適当に作ったのかもしれないし、気持ちを込めて作ったのかもしれない。
だが、受け取り方は私が決めるものだ。
どんなものであっても好意をきちんと受け取れる人間でありたかった。
例え、私が死ぬとしても、それがプライドだった。
贈り物
私の誕生日に妹は、ブックカバーを贈ってくれた。
私は、そのお返しをしようと思った。
そして、妹に何がいいか聞いてみた。
相手に贈り物をする時は、サプライズではなくて、相手が欲しい物を贈りたかった。
要らない物というのは、私にとってはゴミだからだ。
妹はおすすめの本が欲しいと言った。
確かに、本はいい。
若ければ、若いほど本に書いてある考えに驚かせられ
学びというのは、一生物の資産になる可能性もある。
私は、若い時は様々なジャンルの本を読むべきだと思っているので、妹が読んだことがなさそうなSFを贈ることにした。
それぞれのジャンルに幅広く興味を分散させ、後から深めればいい。
まずは、知ることが大切なのだと。
『三体』
私は、最近この本の文庫版を読んでかなり面白く感じたので、この本を贈ることにした。
私がSFを勧める理由は、妹が読まなそうなジャンルというのと、価値観というものについて知って欲しかったからだ。
価値観が変化する喜びは、なかなか味わうことができない。
近未来の地球を想像するのが、SFだが、それ以上に発展した未来で、人がどのように考えるかを読むことが面白い。
SFというのは、そんな想像の手助けをしてくれる。
新しい技術が出て、価値観がどのように変化するのか。
本を贈るというのは、物質を贈るというよりかは、考え方を贈るという感覚に近い。
考え方が変わることより、素晴らしいことはないのではないかと思う。
作家という職業
作家や映画監督というのは、現実と空想の区別がつかなくなっているという話を聞いた。
でなければ、革新的なアイデアは生まれない。
私は、作家性というのは誰しもが持っていると思っていて、歴史の中にそれは混ざり込んでいるのだと思っている。
時間が経っているというだけでありえないことが信じられていて、それは、ありえないことでも信じたかった人がいたからなのではないかと思う。
嘘と現実がつかないくらい作家性の高い人間が昔に何人もいて、その人たちにとっての現実は、妖怪がいて、特別な力が見えたのではないかと思う。
精神が異常な人間にとっては、私たちからみた非日常が日常なのだろう。
そのような作家や映画監督たちが昔は溢れていて、彼らが考えたものが現実に伝わってきたのだろう。
だから、私たちからすれば、ありえないことも彼らからすれば、ありえるのだ。
妖怪が奇形した動物だと思うのもいいし、妖怪がいたと思うのもいなかったと思うのもいい、それを確かめることはできないのだから。
だが、それを信じている人がいる限り、妖怪は存在するのだ。
私は、現実離れした作家のような人間が歴史を作っていると考えている。
だから、宗教は信じないし、妖怪や、お化けなども信じない。
嘘が上手い人、現実と空想の区別がつかない人。
彼らが、歴史を作ることに大きな影響を与えたことを信じる。
待ち時間
部活終わりに親の迎えを待つことが多かった。
私は、親が、忙しく仕方がないと考えていたが、親は買い物に行く時も、何か待ち合わせがある時も余裕を持って行動しないのが疑問だった。
それを見る度に待たされていることに苛立ちを覚えるようになった。
一度や二度の話ではなくて、何度も同じようなことがあったからだ、私のことを待たせた親は、適当に笑いながら何事もなかったかのように振る舞っていた。
そうすると、私の中の反発心が大きく膨らんでいくのだ。
そして、誓った。
私は、時間にルーズな人と結婚したくない。
ギリギリを狙う人が分からない。
時間は平等に与えられていて、示されている。
それに遅れないために全員が少し余裕を持って、早く行く。
私も母と同じようにマイペースだが、時間は守るし、曖昧な予定を組まない、もしも曖昧な予定ならそこには参加せずに自分の行動をとる。
よくこんなことを考える。
もしも、待ち合わせ場所に彼女や彼氏、友達が遅れてきたらどうするか?
何回まで見過ごして、何回目で見切りをつけるのか。
何分まで、待てて、何分で帰るのか。
私だったら、本を読んで待ち。
「着いたら連絡して」と送る。
なぜ遅れたかの原因を追求することはないし、言い訳も聞きたくない。
時間をそんなことに使いたくないし、本を読む時間ができたのだからいいと考える。
何回も遅れてくる人間と本当に会う価値はあるのかを考えてしまう性格なので、価値を感じなければ、もう連絡はしないのかもしれない。
親に待たされていた時は、友達が一人ずつ帰っていき、最終的に私が残るというのがかなり、嫌だった。
もちろん、いいこともある。
待たされた結果、好きな子と話しているとかだ。
だが、それしかない。
私は、最後まで一人で待つことが多かったので、途中まで歩いて帰ることもあった。
むかつきすぎて、迎えが来ても車に乗ることを拒否するということもあった。
謝られても、それが軽く感じたからだ。
何度も繰り返している人間は私にとっては罪人と同じだった。
待ち時間の何分前についておくのがいいのか、私は余裕を持っていき本を読んで待つだろう。そして、相手から少し遅れるという連絡が入るたびに相手の評価が下がっていき、何か決定的な出来事で関係が消滅するのだと思う。
それくらい、時間というものを大切にしたいのだ。
シャーペン
シャーペンをノックすると、少しだけ芯が出てきた。
少し出た芯を見て、紙に文字を書こうとするとすぐに芯は引っ込んでしまい、またノックをする。
それを何度か繰り返した時に爪で芯をつまみ抜くと、1センチ程度しかなかったことに気がつく。
その後芯が出るまで、ノックをするが何度ノックをしても芯は出てこない。
芯が入っていなかったのだ。
蓋をあけ、そこに芯を2、3本入れるとまたノックをする。
だが、出ない。
本当は芯を入れていないのではないか、だが、シャーペンを振ると芯が壁にぶつかる音がした。
シャーペンの先を分解すると、芯がよく分からない詰まり方をしていた。
爪で芯を摘んだせいで、爪の先が黒くなっている。
やっとのことで芯の詰まりを解消し、シャーペンで文字を書こうとする。
あれ、何を書こうと思ったんだ?
私は、ボールペン派だ。
ボールペンは、基本的に壊れないし、何度もノックをする必要もない。
シャーペンが機能しなくなる時というのは、ため息が出てしまう。
落とした、自分が悪いのかもしれないし、シャーペンは長年使われて油が枯れているのかもしれない。
シャーペンはコスパが悪いのだ。
ボールペンは落としても、特に芯が折れたり、詰まることはなくインクを出し続けてくれる。
皆さんは、どっちが好きだろうか?
仲間と友達
トロッコ問題というものを知っているだろうか?
猛スピードで進んでいる、トロッコがあり、そのトロッコは、ブレーキが壊れていた。トロッコの進む先には、作業員5人がいて、あなたは、切り替えレバーを操作できる場所にいる。このままでは、作業員5人が、死亡してしまう。だが、そのレバーを切り替えれば、作業員5人は、助かる。作業員1人を犠牲にして。
5人を助け、1人を犠牲にするのか。
それともそのまま、5人を犠牲にするのか。
これは、さまざまな考え方がある。
人を数として見た時に5人よりも1人が死んだ方がいいと考えるという人。
運命に任せ、5人が死んだ方がいいと考える人。
レバーを動かすことは、1人を殺す選択をとることになってしまう。
だから、責任を負いたくないと考える人。
レバーではなくて、直接的に人を使うというトロッコ問題もある。
これは、合理的な選択をとるのか、運命を信じるのかなどの思考実験だ。
そして、私の遊んでいるダダサバイバーというゲームの話をする。
このゲームには、ギルドという機能があり、ギルドには、決まった人数が所属。
メンバーの活動量に応じて、ギルドのレベルが上がるようになっている。
そのギルドは、ほとんどが知らない人だが、その中には顔見知りも入っている。
そのギルドで、活動量が全体的に低く、ログインすらしていないメンバーがいた。
私は、そのメンバーを追い出すかどうかでずっと迷っていた。
それは、顔見知りだったからだ。
そして、決意した。
私は、メンバーを追い出すことにした。
ギルドの長は私で、私は、除名できる特権を持っていた。
活動量が低いメンバーを定期的に入れ替えなければ、頑張っている人がバカを見てしまう。私は、それに耐えられなかった。
所詮ゲームかもしれないが、足を引っ張る人間は許せない。
例え、それが顔見知りであったとしても、私情を挟むものではないと感じ、合理的な判断を取ることにした。
だが除名後にギルドのチャットに除名された人を擁護する文が送られてきた。
「これからは、忙しくなるからその時は除名しても構わない」
という同じく顔見知りからのメッセージだ。
私は、そのメッセージが私の人情味のない除名に対して送られたことだと思った。
もちろん、その時は除名する。
なぜなら、私個人ではなくて、ギルド全体に関わってくるからだ。
私は、集団が何の目的で存在しているのかを見失ってはいけないと思う。
それが顔見知りであれ、赤の他人であれ、不必要な人間は削るという方針を掲げる。
企業も同じだ。
利益を生むために効率的に回さなければいけない。
友達ごっこをする場所ではない。
私は、感情的になりたくない。
トロッコが赤の他人なのか、知り合いのなのか
それだけで、結果が変わってしまうということは、人数なんてないようなものだ。
村田沙耶香さんに共感
私が村田沙耶香さんの世界に共感できることは、合理的という点だった。
「10人産めば、1人殺していい」
人に優しくできる人が増えるし、少子高齢化も防止できるかもしれない。
「この世界の裏側では、プロデューサーが笑っている」
力を持ったものが、都合の悪い人間を生贄にするために神を作り出したのかもしれない。そして、好きな女を合法的に犯すために儀式を考えたのかもしれない。
「僕たちは遺伝子の家畜なんだ」
世界に都合のいいように、恋人を作り、家庭を作り、街という『工場』に貢献している。それを誇らしげにしている。
村田さんの小説を読めば分かるが、彼女はクレイジー沙耶香と呼ばれている通り、相当狂っている。
私は、それを読むと解放されたような気がするのだ。
頭痛薬を飲むようなものだ。
狂っているのは、おかしいのは、世界の方。
それを知った上で、周りと同じように振る舞いたいがそれが、どうしてもできない。
自分の身が壊れそうで守るために必死だった。
洗脳されていない人間は、生きづらさを感じる。
生きづらさを感じながら生きているのが、馬鹿らしかった。
なぜ、一定数の人間だけが、生きづらさを感じながら呼吸をしなければいけないのか。
洗脳された人間を見ると、軽蔑するか、憧れるかのどちらかの感情が湧く。
生きづらさという病を消し去る薬が、洗脳されることなのではないか。
だが、それらと仲間になると自分が死んでいく感じがする。
かといって、憧れるかというと魅力を感じない。
ただ、生きづらさを消したいだけなのに。
この世界の中に村田さんのように呼吸をしてえる人がいるということを知れた。
仲間がいるというのが心の救いだった。
生きづらさを感じている人間がいるのであれば、村田沙耶香さんの作品を見てほしい、そうすれば、正しい呼吸法を教えてもらうことができる。
少数が無視される世界で、多数は、少数のことなんて考えて生きていない。
同じようなリズムで動いている心臓が違ったものに見えて、気持ちが悪く感じる。
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