第三十三回 個人的な今週のエッセイ R6.11/24-12/01

お品書き
インタ・ステラー
インターステラーの映画が公開されたのが、2014年。
2024年になり、10年ぶりに映画館で公開されたそうだが、
私は、prime videoで鑑賞をした。
前回観たのが、2年か3年前だったので、内容は少し忘れていたが、大好きなクリストファー・ノーラン監督の作品ということで、懐かしい感覚と、壮大なSF観を肌で感じあの時の興奮を密かに感じていた。
あらすじを簡単に書いていくと
主人公のクーパーは、農業を営んでいる、元凄腕のパイロット。
砂漠化が進んだ地球では、砂が大気を覆い、人類は食糧難の危機に陥っていた。地球はもう終わりだ、次の星を探すしかないといった状況だ。
軍が撤廃されたことにより、エンジニアだったクーパーは、GPSを使い、無人のトラクターを使ってとうもろこし畑を営んでいた。
ある時、娘の部屋におかしな現象が起きた。
不可解に感じたクーパーが、その重力と砂によってできた模様を見て、何かの暗号であることに気がつく、そして、その暗号を解読すると、ある座標が浮かび上がった。
そこへ向かうと、秘密裏に活動するNASAの機関であり、かつて、一緒に働いた博士と会い、地球は終わりだということ、『彼ら』について、計画についてを聞かされる。
宇宙に突如として、現れたワームホールは『彼ら』が作ったとされ、地球人を助けるため、新たな星への道標のように見えた。
先に旅立った12機の宇宙船のうち、3機から信号が送られている。
クーパーは、その信号を頼りに新たな人類の住む惑星を探しにいくのだった。
この映画のテーマは、父と娘の『愛』の物語である。
重力は時間を超える、そしてそれは愛も同じ。
この映画の公開は2014年だが、ブラックホールの撮影に成功したのは、2019年となっている。
ホーキング博士などの、偉大な学者が提唱した説が、様々なSF映画で表され、そして、2019年にその姿が明らかになる。
現代でもイーロン・マスクをはじめ、各国の機関が宇宙事業を進めていくというのは、とてもロマンがある。
映画を観た日の夜空は、何だか怖かった。
その暗闇に引き込まれてしまいそうで、星が煌めいていて。
ただ、ただ、固まって夜空を見ていた。
時間の潰し方
飲食店に行くと、店内の待ちスペースが埋まるほど人が多かった。
私たちは、亡くなった祖父の墓参りを終え、地元の飲食店へと向かった。
ふと、そこへ店員が
「店内が大変混み合ってまして、40分ほど時間がかかる恐れがあります。また、席についてから、さらに待ち時間がかかる恐れがあります」
それを聞いていた、近くの50〜60代ほどの男性が
「早く言えよ、何分待たせんだ」
と、そんな小言を言っていた。
私は、長く待たされることを知り、一旦、車へと戻ると、村田沙耶香さんの小説を手に取り、待ちスペースへと戻っていった。
その男性にストレスが溜まっていたのはわかるが、そもそも予約をしなかった人が悪いと私は思っているので、予約をしていない私は文句など言う気にもなれなかった。
そして私の家族も同様に誰一人として文句を言っていなかった。
私に関しては、むしろ何分時間ができたということを知れた。
そのおかげで、読書をして時間を潰すという選択肢を与えてもらったことに感謝したいくらいだった。
現代では、幸いにも時間を潰すものに溢れている。
むしろ、時間を食われていると言っても、いいくらいだ。
祖母は、私の母と話をしていたし、別の家族も会話をしたりしていた。
だが、その男性は、腕を組みながら、不規則な貧乏ゆすりをしていた。
時間ができたと考え、時間をいいものにしようとするのか、それとも文句を垂れ流して、時間を潰したと言う自分の気持ちを守るために、時間を無駄にするのか。
そんな、二つの選択肢があっても、主観で選んでしまいがちだ。
ちなみに私は、待ち時間に応じてやることを決めている。
2時間以上の時間があるのであれば、映画を観るという選択があり、30分ほどであれば、本を読める。
5分であれば、トイレに行ったり、リフレッシュする時間にすればいいし、メモを整理するのでもいい。
何らかの作業を行う時にどれだけの時間を使えるのかを知っておくと、その時間を無駄なストレスの溜まる時間から、有意義なものに変えることができる。
何もない時間を意味のないものだと思っていれば、それは暇な時間となるし、何もない時間に意義を見出すことができれば、それは特別な時間となる。
だからこそ、人と会っている時は、その人と話をしたいし、一人でいる時は、一人でいる時にしか味わえない、リラックス感や没入感を味わいたい。
人生は、暇潰しであるかもしれないが、それは感じ方の問題である。
計画を立てるのは苦手だが、私はパズルのように空白を埋めるのが得意なのだ。
格安ガソリンスタンド
ガソリンの値段が高騰し、180円を超えた電子版を街中で目撃する。
私が最近したミスは、観光名所でガソリンを入れたことである。
日光鬼怒川温泉の道沿いを走っていた時、メーターの残りがほとんど残っていないことに気がついた。
仕方なく、ガソリンを入れるが、渡された領収書を見て、驚いた。
レギュラーが186円だった。
中には安いところもあるが、それぞれの場所が全く違う値段を表示している。
言っても数年前は130円台だったのが、今では、170円を超えている。
だが、私が入れているガソリンスタンドの167円は、昔に比べると高いが、今の時代では、安く感じてしまう。
ガソリンスタンドの表示を街中で見るたびに思うのが、どのガソリンスタンドで補給をすればいいのかということである。
普通に考えれば、安いところで入れればいいのだが、別の考え方があるから、高いところと安いところがあるはずだ。
そこで一つ考えた。
安いガソリンを入れるために寄り道をするというのは、時間を犠牲にして、安いガソリンを買っている。
逆に、勤務先や旅行先の道なりであれば、寄り道をする必要がないので、ガソリンを買うというよりは、時間を買っているということになる。
私の祖母が、そこそこいい値段のするガソリンスタンドに行っており、そこはポイントがつくからお得だと、言っていた。
母は、もったいないと言いながら、こっちに行けばいいと、マップを見せながら教えていた。
だが、祖母はもうすぐ80歳になるので、ガソリン代をケチる必要はないのではないかと、私は思った。
私が安いガソリンスタンドを探すのと、祖母が探すのとでは、時間の価値が変わってくる。
私は、統計的に見れば、今まで生きてきた時間よりもこれからの時間の方が多い。
だが、祖母は、70代後半なので、残り10年くらいになってしまうのではないだろうか?
もちろん、長生きしてほしいので、120歳くらいまでは生きてほしいと思っている。
ガソリンスタンドの値段に差があるのになぜ、高いところを利用するのか?
それは、手間や無駄、時間をお金で買っているからということになる。
そうやって、日常の疑問から仮説を立てていくと、視野が広くなるような気がする。
無限に与えられた時間
『インター・ステラー』の中である博士が言っていた言葉がある。
「私は、死など怖くない。それよりも私は、学者だ、時間が怖い』
インターステラーに出てくる惑星に地球時間の1時間が9年という星がある。
時間は重力によって、伸びたり、縮んだりするようで、その星に行った主人公は、娘と年齢が同じになってしまうのだ。
意味の分からないことだが、SF作品なので、現実にありうることだと思う。
インターステラーの監督、クリストファー・ノーラン監督は、他にも『インセプション』や『メメント』など、時間感覚の曖昧さについて表現している。
子供の時に長かった1日が、今では、すぐに過ぎ去っていく。
気がついたら、1日が終わり、1週間が終わり、何年も時間が過ぎていく。
そんな、伸びたり、縮んだりしているように感じる時間についてだが。
私の家の部屋の一室に監禁されているうさぎを見ていると、とても悲しい気持ちになってくる。
生きているのに、閉じ込められ、餌を与えられ延命され、1日の少しの間だけしか、人間に愛を与えられない。
生き物というのは、食欲で動くが、ペットは、撫でられることに生きがいを感じていると、私は思っている。
本当は、ずっと一緒にいてあげたい、むしろ、ペットとして飼っているのだから、そうしなければいけないと思う。
だが、それもむずかしい。
そこで、ペットはどうやって時間を潰しているのかを考えた時に思いついたのは、夢を見ているのではないかということだ。
目を瞑り飼い主に撫でられる夢や、一日中餌を食べている夢を見てくれていれば、ペットは、それが夢だと気がつかないかも知れない。
監禁している立場として、どうせなら楽しい夢を見ていてほしい。
そうでなければ、私の気持ちが沈んでしまう。
私は、一緒にいる時に近寄ってきたうさぎの頭をマッサージするように撫でてあげる。そうすると、うさぎはブツブツと鳴き、目を細めて気持ちよさそうな顔をする。
それが、たまらなく愛おしい。
愛おしく感じるからこそ、私とは違った時間感覚を持っているかも知れない小動物に同情してしまう。
投げられたボール
投げられたボールを投げ返すのか、棒で打ち返すのか、無視するのか、これは、コミュニケーションのようなものかも知れない。
投げられたボールがどんな意味を持っているのかも分からない。
自分に当てるために投げられたのか、たまたま、転がっていったのか、キャッチボールをするために渡されたのか。
だが、私は、そのボールの中身が気になってしまう。
そのボールをナイフやカッターで切り裂き、中がどうなっているのかが知りたいのだ。
もちろん、ただのボールなので、中に何が入っているのかなど、期待していない。だが、それは、中を見るまで分かることはない。
そして、そのボールを切り裂いた時点で、ボールとしての役割を果たせなくなってしまう。
そのボールはゴムと布に覆われた可燃物、ごみになってしまう。
本来の役割が果たせなくなったとしても、私からすれば、中身を知れたというだけで満足だ。
どんな意図で、そのボールがあるのか、それを感じ取った時、どんな反応をすればいいのか。
それは、自然な反応が出るかも知れないし、決まった動きをするかも知れない。
予測できない、ものだからこそ、ボールの中身に答えが隠されているのではと思ってしまう。
伝えなければ想像される
自分の口が一つあって、それ以外の人たちの脳みそがそれだけ、口がそれだけある。自分が何を考えているのかなんて、相手に伝わらないし、勝手に解釈される。
自分の口よりも他人の口の方が多いのだから。
正直、どんな解釈をされても、私はどうでもいいと思っているので、構わないが、その解釈方法には、興味がある。
映画や本などの作品を知った時にその作品がハッピーエンドなのか、バッドエンドなのかは、人によって違うし、なぜ、ハッピーなのか、バッドなのかというのは、生きてきた環境によってか、癖が生じる。
それがたまらなく面白いのだ。
勝手に解釈されることで、自分が不利益を被るかも知れないが、それは一時的なものだと思う。
その解釈方法は、ほとんどが鏡のようなものだと、私は思っている。
嫌いな人間のことを頭に思い浮かべて、その人がなぜ嫌いなのかを考えてみる。
その嫌いな理由というのは、同じ人を嫌いであっても、それぞれが違った、嫌いを持っているだろう。
そして、嫌いな部分というのは、皮肉なことにほとんどが、自分のことを言っているのだ。
自分が気にしているところが、相手に反映されているということらしく、だからこそ、口癖というのは、その人を表していると言っても過言ではないのだ。
そういった知識を知っておくと、自分でミスをしなくなる。
相手の愚痴を言わず、それでも苦手な人は作っておき、適当な当たり障りのないことを言っておく。
嫌いな人がいないというのが、理想だが、性格には対極に働く磁石のような一面があるので、それは難しい。
昔は、中身が伝わらなければ意味がなく、表面的で薄っぺらい関係は何の意味もないと思っていた。
だが、自分を守り、相手を知るためには、ある程度のダメージを吸収できる膜のようなものを持っておいた方がいい。
そんな、気がした。
終わりに
12月に入ると、おそらくすぐに正月を迎えるのだと思う。
私の楽しみは、餅を食べることで、海苔を巻き、醤油と少しの砂糖で作ったタレに海苔で巻いた餅をつけて頬張るのだ。
おせちは好きではないが、雑煮もまた美味しい。
時間が過ぎていくのが、恐ろしく早く、インター・ステラーを見ている時に感じた焦燥感は計り知れないが、自分がやるべきことを記録していると、振り返った時に自信を得ることができる。
そんなことは、忘れているので、はじめようと思った、私に感謝するしかない。
この週末の唄というのも、ただ単に私がアウトプットしたいと思って始めたものだ。
週末に行っているメモやノートの整理から、何か文章を書いていけば、気持ちのいい文章が書けるのかも知れないという、ものだ。
お金を増やすにも、スキルを磨くにも、時間が鍵になってくると、私は思っている。
とりあえず、続けて、たまに振り返って、改善し、工夫をし、それを繰り返していけば、成せるだろう。
今年も、残り1ヶ月、よろしくお願いします。
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