安倍公房 砂の女を読み終えて

私の脳内

砂というものは面白い、例えば子供なんかが公園の砂場で遊ぶとして、もっとも今の子供が砂場で遊ぶとは限らないのだが。例えば山を作ったり、その山に穴を空けて、そのできた穴なんかに手を突っ込んだりして遊ぶのかもしれない。私も子供の頃は砂場でそんな遊びをしたものだ。
子供がただの砂場に穴を掘り、山を作り、独自の空間を創造する。だが、不思議なことに次の日にはその砂場は元の平らな状態に戻っている。もしくは別の子供が別の遊びをしてできた砂場が形状を変化させているかもしれない。
砂は自由に流動し、私たちを楽しませてくれる。その反面、流動するということは私たちがその砂と関わったという形跡がなくなるということでもある。つまり、砂というのは私たちがいてもいなくても、同じ状態を維持し続けているのだ。

「砂の女」で主人公の男は、自由に枯渇しているように見えた。恐らく、それは砂の穴の底に閉じ込められていたからであるからなのだが、その窮屈な環境で生活を強いられることに男は苦悩していたため、何度も脱出を試みることになる。最終的な結末は別なものとなってくるのだが。その実存主義的な結末は実に私好みのものだった。

私たちは存在していても、しなくても、世界というのは勝手に進んでいく。それは当たり前のことなのだが、私たちはそれを認めたくないので、誰かのために自分を犠牲にし、そこに存在意義を見出してしまう。
実存主義的な結末とは、閉じ込められた自由のない環境であっても、自分なりの生きがいや楽しみを見つけ出せたということだろう。それは他者に依存するものではなくて、あくまで自分自身の中にあるものがいい。私のように人生に閉じ込められているような感覚を味わっている人間にとっては、その実存主義的な結末が希望のように思えるかも分からない。
人生は、砂のように私たちに無関心で私たちを必要としていない。そこで必要なのは、自分が何をしたいのかを知り、自らの選択によって人生を構築することなのだと思う。
人生は砂のようなものだろう。私たちが残した足跡は風が吹けばたちまち消えてしまう。足跡が消えてしまえば、どの方向へ進めばいいのかが分からなくなってしまう。だが、足跡を残す必要が本当にあるのかどうかは分からない。雨水と砂を使い、城を建てたって誰も文句を言ったりはしないだろう。

 


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Posted by yuuya yamaguchi