週末の唄 第十八回 個人的な今週のエッセイ R6.8/11-8/18

お品書き
邦画
私は、邦画から距離を置いていた。
それは、日本の映画に良い印象がなく、旬のタレントを使った観客動員数稼ぎは、作品を侮辱しているようにも思えた。
だが、『カメラを止めるな!』を観て、邦画にしかないものを知ることができた。
ちなみにこの映画は、ほとんど無名の役者を使い、制作費300万円で30億円の数字を出した、どんでもない作品なのだ。
洋画には、どんでん返しのような大きな展開とくさいセリフが似合っていて、派手な演出や大きな感情表現は、日本人がやると不自然になってしまう。
日本人は、感情がうるさくなく、静かさや謙虚さが滲み出ているからだ。
私が、好きな邦画は、登場人物の笑っているシーンが少なく、全体的に陰鬱な雰囲気が漂っているものだ。
そのほうが日本のイメージに合っていると思っているからだ。
今週観た映画で印象に残っているのは『カメラを止めるな!』『紙の月』『子宮に沈める』だ。
『カメラを止めるな!』は前々から興味を持っていたが、ただのゾンビ映画だと思っていたのであまり観る気になれなかった。
だが、今まで観たことのないストーリーで予想以上に楽しめる映画だった。
『紙の月』は銀行に勤め始めた女性が、不正にお金を手に入れ、愛人に注ぎ込むという話だ。
学生時代に父親の財布を盗んでまで寄付を行なっていたということがあり、金を盗んでまで、他人に奉仕をする異常な女性が表現されている。
最後に『子宮に沈める』はネグレクトの話で実際にあった事件を元にしている。
自分の子供をアパートに約50日間も放置した事件だ。
私たちがニュースで凶悪な事件を見た時というのは、嫌悪感を感じ、完全に悪者だとして、犯人を叩くだろう。
確かに犯罪者であり、悪いことをしているが私たちがその人を責めて良い理由にはならない。
この事件であれば、良い母親であった女性が変貌していき、育児放棄をするに至ってしまう。
少子化対策に力を入れている国であれば、人々が子供を求めるような政策を立てている。
日本では、少子化対策もそうだが、片親を救済する処置を立てた方がいいのではないかと思った。
喜ばしいものとして生まれるはずの命が親に邪魔者として扱われてしまうというのが、とても悲しい。
私たちに直接は関係ないのかもしれないが無関係ではいられないだろう。
酔っ払い対応
私は、酒飲みをバカにしているのかもしれない。
嗜む程度であればいいのだが、記憶が残らないほどの酒飲みとは、まともに関わることがバカらしくなってくる。
明日には、記憶がない人間と真剣に話すのは、無駄なことだと思う。
そして、人間は基本的に聞くことよりも話すことが好きなものなので、少しでもきっかけを与えてしまうと、そこから会話が広がってしまう。
会話を広げることはいいことだ。
時間を潰すのに丁度いいし、コミュニケーションは重要な課題だ。
しかし、酔っ払い相手だと話は変わってくる。
記憶に残らない会話は無駄なことだと感じる。
同じ類にされたくないと感じないだろうか?
私は、自分が嫌悪感を感じたことをしないようにしている。
同じ類にされたくない、仲間だと思われたくないと感じると徹底した行動をとってしまう。
静かな夜
静かな夜に一人でいると、世界に置き去りにされたような気持ちになる。
私ほど、一人を望んでいる人はいないのではないかというくらい、私は一人を求めている。
過剰に気を遣ってしまう性格なので、誰かといる時というのはいつもの何倍も体力を使ってしまう。
だから、友人というのも連絡が少なく、それぞれの時間を大切にしているような人が望ましいのかもしれない。
一人が寂しいという人の気持ちが私には、全く理解できない。
女性の後ろ姿
人によって、異性の好きな部分があると思う。
ある店で、順番待ちをしている時に気付いたことなのだが、女性は後ろ姿が1番綺麗だと感じた。
実際の後ろ姿のことではなくて、目に見えない部分を想像するから補正されるのだと思う。
声が好きとか、言葉遣いが綺麗とか、仕草が好きとか色々あるだろう。
私にとって理想的な女性の像は、優しいということで、見た目のこだわりは思いつかない。
メガネをしているなら、丸メガネでショートヘア、髪を束ねているのなら足が長く見えるパンツにTシャツ、方にジャケットをかけているといった、なんとなくのイメージはあるが、優しくて、気が合えばいいと思う。
頭の中にある、目に見えないものを探している時が1番面白いと思う。
抽象的な単語から、理想に近いものに近づけていくというのは、男性ならなんとなく分かる話だと思う。
自分が思う完全な理想の女性というのがAIによって作られたら、私たちは、一目惚れをするのだろうか?
ぼやけた理想が、具体的なものになったらどんなものが現れるのか?
銃で
9/10から1週間は自殺防止デーというものらしい。
死について調べていると興味深いものが色々と散見される。
例えば、世界の自殺の20%は農薬によって行われているものだったり、駅のホームに青い照明を設置することで飛び込み自殺が84%も低下するらしい。
アメリカでは、80年代後半に自殺が大幅に減ったが、その後、銃での自殺により自殺率が大幅に増加したということがある。
銃は自分の身を守るものであり、引き金を引けば簡単に命を奪ってしまう。人差し指を動かすわずかな力が己の命をも奪ってしまうのだ。
日本で銃が簡単に手に入るようになったら、事件に巻き込まれるより多くの命が自殺によってなくなるような気がする。
銃によって自殺が増えたということになぜ興味を抱いたのかというと、人間は死を望む生き物だからだと思っているからだ。
めんどくささや手間が省ける銃での自殺は、人間の死を近い存在にしたのだと思う。
私たちが生まれた時というのは、死に最も近い状況にある。
そして、死から遠ざかるというのは、単に健康上の問題や衛生面に関することだけではない。
大切な存在ができたり、生きがいを見つけたりして生を実感すると、死を感じながらも死を望まなくなるのだと思う。
何もない人間が死ぬのは簡単だが、子供や家族がいると責任感のようなものが芽生える。
それを絆と呼ぶのかもしれないが、私にはその繋がりが鎖のようにも見えてしまう。
何かあった時に死は、逃げ道にもなり得ると考えているからだ。
私が人と強い関係を持ちたくないというのは、鎖に縛られたくないからであり、常に自由にありたいと考えいるからだ。
恐らく、この考え方が変わらない限り、人を愛すことはできないのだろうと思う。
だから、せめて自分のことくらい愛したほうがいいのかもしれない。
雑草、病気
貧乏草には、ハルジオンという名前があり花言葉まで存在する。
ちなみに『追想の愛』といったもので、閉じた蕾が過去の恋愛を思い返している姿に見えることが由来らしい。
なぜ、ハルジオンの話をしたのかというと、病気の話にも繋がる。
「雑草というものは、この世に存在しない」
それは、人間が知らない植物を雑草と呼んでいるからで、植物には一つずつ名前が付けられているからだ。
そして頭がおかしい人や普通でない人のことを病気と決めるけるのは、分からない植物を雑草と呼ぶことと似ていると感じた。
例えば、醜形恐怖症というものだったり、強迫性障害といったものも興味深い病気であまり詳しく知られていないものだと思う。
精神的な病気は診断が難しく、個人で正しい病名を見つけられるとも限らない。
障害というのは、日常生活に支障が出る程度のものだと聞いたことがあるが、日常生活に支障が出ない範囲で苦しんでいる人もいるかもしれない。
恐怖症だったり、精神的な病気を調べてみるとかなりのものが見つかる。だが、それを知らなければ、広義に病気と片付けられてしまう。
この世界で普通に生きている人からすれば、苦しみを持っている人を想像することが難しいのだろう。
私は、そのことを考えるたびに悲しい気持ちになる。
たまたま、運が良く、生きやすい人生を歩んでいるだけなのにそうでない人のことを考えず、心無い言葉をかけるのだ。
「あの人は、病気だ」という言葉は、どこか冷たい印象がする。
あの人は、雑草だと言っているように感じるからだ。
どんな病気で、どんな苦しみがあるのか
私たちは人を傷つけないために知識を得て、相手の気持ちを理解しなければいけないのだと思う。
誰かだけがやっていても意味のないことだ。
せめて、自分だけでも味方になれるようにしたいと考えている。
だが、それも自分のためなのかもしれない。
盆
綺麗な墓石や整えられた墓地を見ると、爽やかな気持ちになる。
私の家の墓は、山の中にあるのだが、開拓されており、去年にあった竹林は、どこかへと消えてしまった。
私は大勢が嫌いなので、親戚の集まりというのも苦手だ。
せめて、3〜4人まで出ないと気疲れを起こしてしまう。
お盆になり、親戚の声を聞くと今までの思い出が呼び起こされる。
懐かしい感情や出来事
親戚というのは不思議なもので、一年の区切り以外では、完全に忘れてしまう。
亡くなった人は、近くにいるような気がするが、生きているのにどこか遠くにいる気がする。
夏の空には、どこか遠くで打ち上がった花火が響いている。
もしかしたら、花火は上がっていないのかもしれない。
だが、同じ空を見ている人たちは、私と同じで見えないものを想像しているような気がした。
親
自分の性格はどこから影響を受けたのかを考えると、やはり家庭なのだと思う。
昔、本で読んだことにはそのようなことが書いてあったのだが、親の影響を受けているという感覚がなかった。
だが、自分の癖を調べ、振り返ってみるとそうとしか思えないものが山ほど出てくる。
自己分析をすることの良くない点は、考えすぎてしまうことだ。
私はどこか、昔の自分の正当化を行うような行動をしている。
そして、そう言った私の頑固さを感じる度に私は我が強いのだと感じる。
私の場合は、嫌悪感を抱くものに反発するということが性格に刻まれている。
恐らく、親の嫌いな部分や誰かの嫌いな部分を見て、それを正しいことだと思えなかったからだろう。
論理的に考えた時にそれが正しいのであれば、理由付けができるのだが、年齢を重ねて論理的に考えるようになると、おかしな部分がさらに見つかってくる。
自分が極端に反応するものというのは、必ずきっかけになっているものがあると思う。
時間にうるさかったり、整理整頓にうるさかったり
忘れていた方がいいのかもしれないが、自分の行動原理を知るのであれば、過去に強く印象に残っている出来事を考えてみてほしい。
そうすれば、答えば見つかるだろうから。
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